#8-1.人となった魔族
大帝国帝都・アプリコット。
荘厳な城の中庭のテラスにて、黒の女王は一人、山積みになった書類にサインを記していた。
傍にはティーセット。慣れた様子で丁寧にサインしてゆく。
各地域での戦闘に関して、北部の今後の行動予測、今回の南部の攻撃の狙いの予測などの報告書類。
その他軍関係予算表、傘下に入りたいという小国の王族からの依頼書、民からの陳情など等。
彼女の関わるべき書類は常日頃から山積みとなっており、これらを読みこなす事、サインを記していく事は、エリーシャにとって日常的にこなす業務の一つとなっていた。
「リットルが倒れて、対南部の守りが利かなくなってきたわ……どうしようかしら?」
今彼女が手にとっているのは、先日終結したシュニッテンの戦いに関する報告書類。
敵軍を壊滅したというのは悪い話ではないが、自軍が少なからぬ打撃を被った事、司令官のリットル他、軍上層が負傷してしまったことは中々に頭の痛い事態であった。
幸いリットルらは命の心配だけはないらしいのだが、後に残されたエリーシャとしては、やはりため息が尽きない。
「それに、南部の狙いに関しても今一わかりにくいのよね……報告書を見た限りでも、西部経由で攻め込んでくる気配もなさそうだし――」
北部と連動しての攻撃に見えなくも無いが、それにしても規模が半端というか、状況的には一大決戦を臨んでいてもおかしくないタイミングのはずなのだが、それが見えてこない。
何かがおかしい。何か起こるかもしれない。そんな違和感と疑念が、エリーシャの頭をよぎる。
「……北部の狙いも解らない。本気でこちらを攻める気なら、例の金竜が突っ込んできたらそれこそこちらは何も出来ずに瓦解するはずなのに。それをしてこないのは、やる気がないのか、それともやりたくてもできないのか――」
解らない事だらけだった。ただ、それで投げ出せるほど楽な立場ではない。
青い羽のついたペンをくるくると指の間で回しながら、エリーシャは一人ごち、考えを巡らせる。
「――貴方の意見を聞きたいわね、大臣?」
そうして、振り返りもせず、背後に立っていた影に声をかけたのだ。
「はっ――こ、これは、その――」
驚いたのは大臣の方であった。
まさか話しかけられるとは、と。びくりとしてしまっていた。
「私とお話したいからここに来たのではなくて?」
そんな大臣をちらりと見ながら、しかしエリーシャは気にもかけず、マイペースに話を進める。
「え、ええ。まあ……」
「まずは意見を聞かせて欲しいわ。貴方の見解から見て、今の状況はどうかしら?」
真意が読めず、戸惑いながらも正面へと歩いてきた大臣に、対なった椅子にかけるように手振りする。
「私の立場から申しますと、南部の狙いはこちらへの『遅滞行動』なのではないかと思うのですが」
「遅滞行動?」
話しながらに椅子に腰掛け、テーブルにて腕を組む。
「はい。我々が西部、もっと言うなら港を封鎖した事によって、南部諸国は少なからず経済的な打撃を被っているはずです。そうして、彼ら視点でこれをみた場合、この状況を放置すればいずれ、中央諸国が攻め込んでくるもの、と考えてもおかしくはないのでは」
「つまり、攻め込まれるのを防ぐためにあえて攻め込んで、打撃を与えて抑えようとした、という事かしら?」
「北部が攻撃をしている今なら、少なくとも大帝国全軍を相手にする事はないと踏んだのではないでしょうか?」
羽ペンを置き、傍に置いてあった中からカップを大臣へと手渡す。
「どうぞ」
「ああ、どうも――」
そのまま、手渡したカップに向けてポットから紅茶を注ぎ込んでゆく。
書類書きは中断。ティータイムとなっていた。
「――敵の指揮官の人選が謎ね」
カップに唇をつけながら、女王はぽそり、呟いた。
「そのような遅滞攻撃を狙うなら、大部隊での正面衝突なんて愚策以外の何物でもないわ。しかも、中央を刺激しかねない」
ずず、と薫り高い紅茶を一口、飲み下す。
カップを置き、指を立て話を続ける。
「つまり、人選に誤りがあるか、あるいは、全く別の効果を狙っての攻撃の可能性があると、私は思うの」
どうかしら、と、顔を少し傾けながら。
大臣に向け、にぃ、と笑っていた。
「な、なるほど――いやはや、やはり、戦地を知っている方と、内政のみの私では考え方が違うようですなあ。そこまでは考えられませんで……」
「別に貴方の意見を否定したい訳ではないのよ。ただ、色んな意見を参考にしたいだけ」
「はあ……」
「でも、できれば貴方の『立場どおりの視点』での意見を聞きたかったわね」
ぴしりと言い放つ。場の空気が、一瞬で冷え切っていった。
「いえ、ですから、さきほどものが私の立場からの意見で――」
「それは違うわ。『大帝国の大臣』としての意見ではあったでしょうけどね」
女王は解っていた。目の前で顔を真っ青にしているこの男が、そのままの立ち位置ではない事を。
解った上で見逃し、こうして座る事を許していたのだ。
「……女王。それは、その――いつから?」
気づかれていたなどと思いもしなかった大臣は、蒼白になった顔のまま、ようやく声を絞り出す。
それがたまらなく面白いとばかりにエリーシャは笑うのだが、大臣はそれどころではなかった。
「シブースト様が亡くなられる前後かしらね。衛兵隊によるクーデターの察知もそうだけど、城の中に手引きした者がいたとしか思えない事が多すぎたわ。そして、会談の時に確信した」
なんだかんだ、城で何かが起きた時には大体はこの大臣がその場にいたり、状況を把握できる立場にあったのだ。
会談の際などにもこちらの情報が筒抜けになっていたようにも感じられたのだ。
だから、エリーシャが大臣を関わらせずに女王を名乗ったり、ガトー王国を傘下に引き入れたりした際には、驚いた魔族達の視線は大臣に集まっていた。
何も知らないなら、関係が無いなら、その時に視線を向けられるのは自分に違いなかったはず、と、エリーシャは考えていたのだ。
「まあ、結果として魔王軍との戦争は止まったのだから、今更貴方をどうこう責めるつもりもないわ」
萎縮しすぎないようにと気を回しながらも、あくまで場の主導権はエリーシャが握っていた。
また、そっとカップに唇をつけながら、話を続けるのだ。
「でも、私には貴方が魔族には思えなかった。魔王から聞いていた『魔族像』と比べて、貴方は人間くさすぎるもの」
今の様子を見てもそうだが、魔族と言われても疑問を感じる程度には、彼は人間らしかった。
外見的な記号は変身魔法なり変装なりで変えられるかもしれないが、立ち居振る舞いからにじみ出てくる内面は、人との違いがまるで感じられない。
事実、エリーシャ以外の誰もが今も彼を人間と認識し、恐らく先ほどの疑問点さえなければ、エリーシャ自身もそう思いこんでいたはずであった。
少なくとも彼が大臣に就任してからの年数、誰もが彼を疑っていなかったのだ。
「いえ……私は、魔族ですよ」
しかし、大臣は白状する。
あくまでぽそぽそと、すぐ目の前のエリーシャにもなんとか聞き取れる程度の声で。
「もう二百年ほどになるでしょうか。先代魔王の時代にこの国に来ました。後の世に、後を継ぐべき者が人間世界制覇を行いやすくするため、という名目でしたが。名を変え姿を変え、百年以上かけての試行錯誤の末に地盤を築き上げ、皇室の信頼を受け、この地位にまで登り詰めました」
「……ふぅん」
その『後を継ぐべき者』が先代魔王の狙い通りに今代の魔王となっているのかはエリーシャには知る由もないが、随分と壮大な計画で感心もしていた。
「確かに、魔王軍にとって有利に働くように、様々な情報をリークしておりました――ただ、女王陛下が仰ったように、今では、私はこの国の人間の一人であると、そう思っております」
「それってつまり、魔族でありながら、自分の事を人間と同じように感じてしまってるってこと?」
「その通りです。人の中で生き、暮らし、自身を人と偽っていく内に……魔族としてこの国に紛れ込んだ頃の私は、いつの間にか消え去っておりました」
性質は、変わるという事。
例え魔族であっても、生きる環境が変われば、それは人と変わりない、言われなければ解らない程度の違いしか生まれないという事実が、そこにはあった。
「今の貴方は、何を思い魔族と人間との関わり合いを見ているのかしら?」
人となった魔族は、人の世の中、魔族をどのように見ているのか。
魔族と手を組んだこの国にあって、彼は何を考え、自分の前に座っているのか。エリーシャは気になった。
「私は、人として生きる間に、私のようにこの人間世界で暮らしていけば、魔族である事など何ら障害にもならないのだと気づかされました。魔族と人とは考えが違うというのが世間の見解ですが、私はそうは思いません。生きる環境が異なれば、人とて魔族に近い性向を持つようになる。つまりこれは、本質の部分ではなく、後天的に変わりうる部分なのだと、私は思うのです」
人となった元魔族は、緊張げに汗の吹き出ていた額をハンカチで拭う。
そして、口元をひくつかせながらであるが、ようやく笑みをたたえた。
「私は、人間が好きです。魔族でありながらこう考えるのは異端的かもしれませんが、平和というのは実によろしい。人々の笑顔を見る事、それを見るために良政を敷こうと考えるのが楽しくて仕方ない」
彼は勤勉であった。
長らく皇室より大臣として政務を取り仕切る事を認められていたのだ。
当然、有能であった。
民から圧倒的な支持を受けていた賢帝シブーストの治世は、実のところ彼の努力によるところも大変に大きい。
これら実績があるからこそ、国の平和や民の平穏を願うという彼の言葉に偽りは感じられなかった。
だから、エリーシャも微笑む。
「私も、人間が好きよ。平和が好き。民には幸せに暮らして欲しいと思ってる。その気持ちは誰にだって負けると思ってない」
笑顔のまま、彼の意見に同意していた。賛同していた。二人は、ある意味では同志であった。
「でも、だからこそ謝るわ。ごめんなさいね。私ではきっと、この国を平和にもできないし、民を幸せにする事も出来ないわ」
申し訳なさそうに眉を下げながら。静かに眼を閉じ、謡うように語る。カップはいつの間にかテーブルへ。
大臣は、静かにその言葉に耳を傾けていた。
「私は元勇者だもの。政治もわかるし軍事もわかる。でも、政治家にはなれないし、きっと女王様にも向いてないわ」
英雄は嘆く。黒の女王は、しかし、自身にその器はないと理解していた。
だからこそ起きる、これから先の展開も解った上で。
それでも、やらなければならないと、やるしかないのだと、諦めたように笑っていた。
「解るでしょう大臣。この国は、この世界は、それらをまとめ得るうってつけの人がいるわ。私はやれるだけの事をやって、その人に明け渡したいだけなの。ただの露払いでしかないわ」
「――女王陛下」
「平和な世の中を統べるのは、人々の思いを理解し、人々の痛みを自分のモノとして嘆く事が出来る人。優しい人じゃないと無理なのよ」
自分にはそれが無理だと解ってしまっていた。
自分はただ、戦争へと人々を扇動し、戦い、戦争に勝利し、敗者を滅ぼす。
全てを平らにして、全てが上手くまとまるように道を作るだけ。
それが自分の役目であると、彼女はそう考えてたのだ。割り切っていたのだ。
「生き延びなさい大臣。人間の私は、きっともうすぐ死んじゃうけど。貴方は魔族だもの。長く生きて、彼らを支えてあげてね」
そうして、願うように見つめる。既に力強さはなく、儚さを感じさせる瞳であった。
「――女王陛下がそう望むのでありますれば」
腹をくくるような気持ちでそれを受け、大臣はカップを手に、琥珀色を飲み干す。
冷たい感覚が喉奥を潤わせ、乾いた口元を緩めていった。
「あと少し。あと少しで全てが変わるわ。全て終わる。もうちょっとだけなのよ――」
それまで持って欲しいものね、と、誰に聞かせるでもなく一人ごちながら。
女王は再び転がしてあった羽ペンを手に取り、くるくると遊ばせていた。




