#7-1.ガンド
魔族世界東部・ウィッチ領トランシルバニアにて。
東部の主要都市として知られる領主館周りの街、アルセリアは崩壊し、無残な廃墟となっていた。
ところどころ焼け焦げた死体が転がっていたり、溶かされた元魔族が瓦礫や石畳と同化していたりと、とにかく死の臭いが濃厚であった。
そんな、あまり居心地の良くない街の中心部に、黒竜姫は降り立つ。
巨大な翼をしまいこみ、恐ろしげな大トカゲから元の姿へと戻る。
艶やかな黒のストレートを指先でそっと煽ぎ、すう、と軽く息を吸い込み深呼吸。
「んん、あんまり美味しくないわね……」
元々は綺麗好きなウィッチ達の、清涼かつ静かな街であったはずのアルセリアだが、生憎とこの有様で、それらの形跡すらほとんど見受けられなくなっていた。
残念そうに眉を下げながら、黒竜姫は歩き出す。
目的地は領主館。迷子になった二人のお迎えである。
領主館は、既に更地となっていた。
経緯としては、例の深緑のウィッチによって誘拐されたアーティと人間の姫君が、深緑のウィッチと勘違いされて悪魔王配下の軍勢に攻撃を受け、これを何とか凌いだ末こうなったらしいが。
「随分と派手にやらかしたわねぇ」
大人しそうな顔してたのに、と、豊かな胸の下で腕を組みながら苦笑する。
真相を詳しく知らない彼女は、アーティが単独でこれをやらかしたのだと思い込んでいたのだが、自分の実家とも言える領主館をよくもここまで破壊しつくせたものと、半ば感心し呆れてもいた。
勿論、自身がグランドティーチでやった事は棚に上げている。
都合の悪い事は気にしないのが彼女であった。
「さて、目当ての二人は――あら?」
更地の中心に立ち、周囲を見渡すもそれらしい姿は見当たらず。
ただ、妙な違和感を感じ、瞬時に意識を切り替える。
(これは――っ!?)
一瞬右側面、離れた空間にひずみのようなものを感じ、その場から飛び退く。
直後、ひずみから泥のような黒が放たれ、黒竜姫の居た場所を穢していった。
ぬめついた黒。穢れたソレは地面を汚染し、バチバチと音を立て空間を圧壊してゆく。
『ほう、これをかわしたか――』
空間のひずみから聞こえてくる声。彼女にも聞き覚えのあるモノであった。
「――悪魔王。不意打ちとはまた、随分とつまらない事をするわね」
腰ほどまでの艶やかなストレートを手で掻き分け、声の主に向け、ジロリと睨みを利かせる。
『ククク――』
愉快げな笑い声と共に、ひずみは何かを飲み込むように歪曲し――やがてその中から、巨大なヤギ頭の悪魔が現れた。
「こんなものはただの余興よ。しかし、我を前に構えるとは、今の一撃、少しは警戒していただけているのかな?」
「……余計なお世話よ」
反射的に構えを取っていたのを指摘され、面白くなさそうにギリ、と歯を噛む。
「なに、気にする事は無い。先ほど我が放った『世界の毒』は、我ら創造物にとっては致命的。いかに強かろうと、その存在を根底から捻じ曲げられれば、ただでは済まぬのだからな」
笑いをこらえるようにして吐かれるその言葉に、黒竜姫は警戒を強めていく。
普段から慇懃な態度の下に何を考えているのか解らない男だと感じていたのだが、今はそれがより前面に押し出されているように感じたのだ。
「元々ロクでもない奴な気がしたけど、どうやら当たったようね。まさか『禁呪』にまで手を染めるとは」
ヤギ頭の掌には、球状を保った粘土質の闇が纏われていた。
この世のありとあらゆる呪いを内包する『世界の毒』。ヤギ頭は、それに手を触れていたのだ。
「そう言うな。お前たち黒竜相手に素手や生半可な魔法で勝てると思うほど我は愚かではない。こうして高純度の呪い(ガンド)の一つも扱わねば、抵抗ひとつできずにあの世行きだ」
それでは台無しだろう? と、余裕たっぷりな口調で。
ヤギ頭は、掌を前に突き出し――呪いを放った。
「そんなもの、見えてればかすりもしないわよ?」
しかし、黒竜姫は撃たれた後にこれを見切り、回避する。
そんなに速くはない。少なくとも魔王や彼女の兄の拳よりは遅かった。
容易にかわすと今度はヤギ頭の側面へと接近する。
「むっ――」
ヤギ頭もかろうじて反応するが、黒竜随一の速度には追いつけるはずも無く。
「相手が悪すぎよ」
彼が動こうとした時には既にわき腹に一撃、まともな蹴りを浴びせていた。
「ぐふぉっ!?」
吹き飛ばされもんどりうち、そのまま消え去っていく。
そう、たったの一撃で。
「……っ!?」
何が起きたのか解らず、黒竜姫はその場に固まってしまう。
あまりにも手ごたえが無さ過ぎた。口上の割りに一撃。身体が消え去ったのもおかしい。
そうして気がつけば、悪魔王を蹴りつけたはずの左の足先には黒が。ぬめった違和感が、そこにあった。
「これは――」
「そら、捕まえたぞ……?」
声は足首から。
べとりと張りついた黒の呪いが手の形となり、黒竜姫の足首を捕らえる。
「このっ!!」
ためらいもなく上げた足を地面へと叩き付け、泥を振り払う。
土中へとねじ込まれ、彼女の左足を侵そうとしていたぬめりはすぐに吹き飛んだ。
「――ふん、容赦の無い事だ」
どこからともなく黒が集まってゆき、再びヤギ頭の巨体を形成させる。
互いに傷一つ無い状況であるが、黒竜姫はどこか、強い焦りのようなものを感じていた。
妙な動悸と耳裏にこびりつく脈の音に、自分が極度の緊張状態に陥っている事に気づかされたのだ。
次第に呼吸が荒くなってくる。明らかに不自然な状況であった。
(――精神破壊――)
思い当たる事と言えば足をつかまれた一連の流れ。色白の頬を、大粒の汗が流れた。
「ほう、耐えたか。上級魔族といえど、これを喰らえばたちまち発狂するか、良くとも戦意を喪失するものなのだが――黒竜の姫君は、存外精神性もそれなりに強いらしい。魔族とも思えぬな?」
その様子が愉快で溜まらぬとばかりに、ヤギ頭は笑いをこらえながら近づく。
「まあ、あの女の娘だ。人と魔族とのハーフともなると、相応に精神性を高く保てるのかもしれんな。その存在、実に脅威である」
「くっ――」
本来なら有効なリーチにまで近づかれても尚反撃できず。
黒竜姫は、その場から飛び退いてしまう。
脅威を感じていた。
先ほどのように物理的な打撃を加えても、自分がまた呪いに掛けられてしまうかもしれないという不安があったのだ。
この呪いに重複的な効果があるかは彼女には解らなかったが、もし重複するのだとしたら。
次は耐えられないかもしれないという不安定な揺らぎが、彼女の心を支配しようとしていた。
「最初から魔法の一つも撃てば勝てたのかもしれんが、猪突猛進な黒竜の性が裏目に出たな。その状態では魔法も扱えまい?」
更に追い討ちとばかりにヤギ頭がガンドを放ってゆく。
黒竜姫はわずかな動きでそれをかわしてゆくが、同時に放たれる言葉にガリガリと心の余裕を失っていった。
「うるさいっ!! こ、この程度で私が――」
「このあたりが経験の差、長く生きた我と、数百年程度しか生きていない小娘との差だ。経験の差とは、時として種族の差すら凌駕する。最強の黒竜が、別に最強でも何でもない一介の大悪魔に敗ける事すらあるのだ」
「――っ」
なんとか意識すまいとしていた『敗北』という言葉に、黒竜姫は一層苛立ちを募らせる。
歯を食いしばり、必死になってヤギ頭を睨み付けた。
「だがこれは教育ではない。戦いの場でそれを味わうという事は、死を意味するのだ。死を。意識したことはあるかな? 姫君は今、死のうとしているのだぞ?」
明らかな狂気がそこにあった。
ガンドの速度は変わらないのに、その弾数はそう多くないはずなのに。
黒竜姫は、次第にそれがとてつもない流れのように感じ、勢いのように錯覚し、呼吸が乱され、追い詰められてゆく。
(――まずい)
精神的な劣勢が、本来圧倒的なはずの実力差を覆してしまう。
見ればヤギ頭のガンドを放つ手が止まっているのに、行動に移れない。
攻撃するなら今だというのに、心が揺らぎ続けて集中できない。
迷いがそこにあった。戦うべきなのか。戦い続けるべきなのか。
今すぐにでも逃げたほうが良いのではないか。このままここにいて、本当に良いのか、と。
拳を強く握る。握った。握ったはずだった。
だというのに、力が全く入らない。細い腕は、ふるふるとか弱く震えてしまっていた。
まるで身体が戦いを拒絶するかのように。
それが恐怖であるかのように、彼女の心を惑わし続けるのだ。
「――何を考えてるの?」
だから、黒竜姫は問うた。
この場に似つかわしくない事をしていた。
今、この場で考えるなら、戦うか逃げるか、そのいずれかのはずだ。
心に浮かんでいた内の、そのいずれも選ばず、彼女は第三の選択を口にしたのだ。
「貴方のせいでアルルは苦しんでいるわ。部下の多くも死んだはずよ。そうまでして、貴方は何をしたかったの?」
震える心を無理矢理に押さえつけるのをやめ、声を震わせながら問う。
肩から力を抜き、俯くように視線を落としながら。
黒竜の姫君は、しおらしく問うて見たのだ。
その様に、ついに黒竜姫の心が折れたのだと確信した悪魔王は、歩みを止めて応える。
「我の望みは、原初の悪魔となる事。我らが生み出されし、その目的を果たす事」
「原初の……悪魔?」
「然様。姫君よ。我ら魔族はいかようにして生まれたと思う? まさか、自然発生的に生まれたのだと思っているわけではあるまい?」
それでも油断なく呪いを纏った腕を向けながら。
しかし、悪魔王は勝ち誇ったように話を進めるのだ。楽しげに、満足げに。