#10-4.壊れゆく教会という名の幻想
「さて、『敵』が誰なのかがはっきりしたのだ。エリーシャさん、もう帰ったほうがいい」
「何故? 私はまだ皇女を取り戻せていないわ」
話は進む。魔王は既に男に興味を無くしており、地面など見ても居ない。
地面に転がるのはつまらない矮小なただの人間である。もはや何事か呟くばかりで人の言葉すら喋れていなかった。
「君単独では組織の相手は無理だと思うのだが。原因がはっきりしたのだから、一度戻り、主に報告するなりしたほうが良いのでは?」
魔王としては気を遣ったつもりか、これ以上の深入りはさせない為に予防線を張る事にしたのだった。
「そんな事してる間にあの娘の身に何か起きたら――」
幾分冷静さを取り戻したとはいえ、やはり素直には応じられないだけの何かがあり、エリーシャは抗った。
しかし、その言葉を遮るように、残念なものをみるような目で魔王は苦笑する。
「何も起きていないと思うのかね? 私は陵辱されたり、洗脳されて教化されているくらいの事は当たり前のように起きていると思ったのだが」
信者を薬漬けにして手駒として使うようなろくでもない組織である。
殺さないとは言っても、捕らえた皇女をただ牢に放り込むだけで済ませるとはとても思えないというのが魔王の素直な感想であった。
「そんな事になったら、私はトルテを殺して、私も死ぬわ。でも死ぬ前に犯人を皆殺しにする」
最悪の結末はエリーシャにも解りきっていた。
だから、そんな哀れな姿になっている妹分が目の前に居たなら、躊躇いなく刃にかけられるつもりだった。
「……君には死んで欲しくないな。折角の理解者だ」
「私はあなたのことなんて、微塵も知りたくないんだけどね」
知れば知るほど自分に近い感覚を持っているように感じて、とても煩わしかった。
勇者である自分と、敵対者であるはずの魔王が似た感性を持つなど、勇者にしてみれば苦痛でしかないのだ。
妙な親近感が湧いてしまわないか心配で仕方なく、いつもそうならないように気を張る。
魔王はそんな事露ほども考えないが、エリーシャは必要以上に馴れ合わないように距離を置いていた。
そうであっても出会ってしまい、そうであってもこうして行動を共にしてしまうのは、やはり彼女の不幸か。
「だが、やはり君には戻ってもらおう。というより、ここにいても何も解決しないからね」
「なんですって!?」
言うなり、エリーシャは何かしでかそうとしているらしいこの魔王に警戒する。
だが、いつも不意打ちは魔王ではなく、アリスから来るのだ。
『さようなら』
「アリス――っ!?」
いつの間に背後に立っていたのか。いつのまに詠唱を終えていたのか。
アリスはエリーシャの肩にぽん、と手を置く。
直後に光が溢れ、戻った時にはもう、エリーシャはその場からいなくなっていた。
「アリスちゃん、ゲートは?」
「もう閉じてありますわ。罠もいくらか張りましたので、これで二度とこの地にゲートを張る事はできません」
にこやかに微笑むアリスであるが、その胸元はダガーで深く抉られていた。
「お疲れ様アリスちゃん。私達も一旦戻ろうか。ああ、べべが破れてしまって。胸に傷が――」
今までずっと我慢していたのか、心配そうに駆け寄ると、魔王は華奢なアリスを強く抱きしめた。
「すまなかったなあ。捕まえる必要が薄いのは途中で気づいたのだが、伝える暇がなかったのだ」
「大丈夫ですわ。私、痛くありませんし」
健気に微笑むアリスだが、胸元だけはそっと手で隠していた。
「ですが、胸が人様の目に触れるのは少し……その、恥ずかしいです」
頬を赤らめる様はまさに年頃の少女そのもので、魔王にして「ああかわいいな」と思わせる。
「この外套を羽織りなさい。さあ、戻ろう」
「ありがとうございます。では――」
主から渡された外套を大切そうに羽織り、アリスはその指示の下、転送の陣を発動させた。
後に残るのは、ひたすら呟く冷たくなりつつある男が一人。
深い森の中、彼がどうなったかを知る者はなく。彼が居た事すら、誰にも知られていなかった。
その後、アプリコットに帰還させられたエリーシャにより報告を受けた皇帝シブーストは、怒り狂い、国土からの『教会』の排斥を始めた。
その怒りは臣下を通して国民にも伝わり、それまで熱心に神を信望していた彼らを教会から遠ざけていった。
皇女タルトは生まれてから今に至るまで、変わる事なく民衆のアイドルであった。
帝国の民衆にとって、神などというよくわからないものより、自分達の愛した、あの愛くるしい皇女の方が優先順位は遥かに高かったのだ。
その誘拐を企てた教会に対し帝国は猛烈に反発し、皇女の奪還の為の兵力を送る事もやむなしと、教会組織に最後通牒を叩き付けた。
国内の全ての教会やその下部組織が国によって暴かれ、中央の盟主である強権を発動させた帝国は、周辺諸国にも強力な圧力をかけ、教会組織を弾圧させた。
自分達が民衆を通じて国を裏で操っているくらいのつもりで楽観していた教会の上層部は、怒れる帝国の勢いに危機感を覚え、即座に沈静化を図るよう動き出す。
最終的には教会により「彼らの独断で行われていた事」として何人かの幹部が差し出され、帝国の手によって処刑された。
ただのスケープゴートである。神など信じていない自称神の遣い達が、次々轟音うねらせる炎に放り込まれていくのを、民衆は腑に落ちない表情で眺めていた。
皇女はほどなくしてサフラン近郊の廃教会の地下から救出されたが、彼女についていた多くの兵や従者達は、教化の為に地下でむごたらしく拷問にかけられ死体となっていた。
目の前で幾人もの兵や従者が教会の手の者によって殺されていくのを見てしまった皇女は、その心をひどく痛めており、瞳は絶望で光を失いかけていた。
当然のように婚姻の話はなかったこととなり、皮肉な事に、タルト自身が望んだ彼女の自由が、この事件によって実現した形となった。
愛娘の有様に絶望した皇帝は、神の存在そのものを否定する法を作り上げ、国民もその悲しみを理解し、受け入れた。
教会としてもこのような結末を望んでいた訳ではなかったらしく、幾度となく弁明に使節をよこしたりしていたが、そのいずれもが門前払いを受け、最早その分断は誰の目にも明らかになっていた。
こうして、人間世界に根を下ろしていた巨大組織『教会』は、折角手に入れた国という名のパトロンを自分達の欲深さ故に失ってしまい、急速に中央での影響力を落としていく事になる。
「これで教会は我らの敵ではなくなりました」
その情報は、大陸北部にも伝わっていた。
『ふん、神の名を騙り驕れる愚か者どもなど、滅びてしまえばいい』
そこは険しい山の最奥。
純白のローブに身を包む金髪の美しい娘と、金色の鱗を持つ巨大な竜が、巨大な祭壇の上から下界を見下ろしていた。
「聖竜様。聖竜エレイソン様」
赤混じりの茶髪。鎧の男が、祭壇の下に跪いていた。
「バルバロッサ、戻ったようね」
娘が声をかけると、男は顔を上げ、娘の方を見る。
「教主様もお変わりなく。ナイトリーダーのバルバロッサ、ただいま帰還致しました」
『ご苦労であった。見事、彼の勇者を幻惑させたようだな』
「はっ、これにて帝国及び周辺国は、今後一切教会勢力と係わり合いになろうとは思わない事でしょう」
教会の遣いと騙り、勇者エリーシャに接近した彼は、見事その役を果たし、こうして教会と中央諸国との間に埋まらない溝を作る事に貢献していた。
「ですが、驚かされました。まさか勇者が、魔王と行動を共にしていたなどと……」
当然、彼女の隣に居たゼガの兄が、魔王であったなどと百も承知である。
「あの魔王は、そういう奴なのよ。油断ならないわ」
憎らしげに、その名を呟くのは教主である。
淡い色の金髪を風にたなびかせ、金色の竜に語りかける。
「義父さん、今こそ国々に、魔王の討伐を働きかける時ですわ」
『うむ。いよいよ我が宿願……我らが宿願が叶う時が来るのだ……』
今まで積極的に戦争を進めなかった、どちらかといえば平和寄りだった教会を排斥し、後釜に戦争を推進する自分達が入り込むのだ。
その為にバルバロッサをエリーシャに接触させ、彼女に教会に対する不信感を植え付けた。
組織が大きくなるにつれ、教会は北部に発生した新興組織を警戒し、諸国に圧力をかけて弾圧しようとしていたが、それが内政に干渉されたと感じた多くの国から反発を受けることになり、結果的に今回の事件を引き起こした。
教会は必死だったのだ。中心的な国家である大帝国を巻き込み、国同士が対立するように、疑心暗鬼にまみれるようにしようとしたのだが、それもエリーシャの手によって暴かれてしまった。
待っていたのは天罰である。今や彼女達を止める術はなく、対抗組織も存在しない。
「我ら聖なる竜の導きを、人間世界に溢れさせるわよ」
涼やかな水色の瞳で鋭く睨みつけ、教主殿は今日も、下界を見下ろしていた。