#10-3.アリスの帰還
帝都アプリコット北・トネリコの塔にて。
皇室が休息の為用いるこの塔は、今ではシフォン皇帝夫妻が生活する拠点となっていた。
身重だったヘーゼルと体調に不安のあるシフォンをエリーシャが慮っての事であったが、塔周辺の町には五千からなる屈強な兵が警備を固めていた。
「ふぅ、今日も良い天気――」
額に汗しながら、ヘーゼルは塔の屋上へと立つ。
その胸には布に包まれた赤子。大事そうに優しく抱きかかえられていた。
「もう、ヘーゼル様。いくら身軽になったからと、まだ階段を沢山登るのはよくないのでは?」
傍には護衛のアリス、それからヘーゼルが城にいた頃から彼女に仕えていた侍女が数名。
皆心配そうに、あるいはおろおろとしながらヘーゼルと新たな命を見守っていた。
「ふふっ、そんなに心配なさらないで。もう大分体調もよくなってきましたし――それに、この子にも良い景色を見せてあげたいもの」
大人しくすやすやと眠っている子供をちょっと高く抱きながら。
ヘーゼルは機嫌よさげににっこりと微笑んでいた。
「まあ、気持ちはわかりますが……」
アリスも諦めがちにため息をつき、そこから見える景色に眼を向ける。
――確かに絶景だった。
そんなに高い塔ではないが、そこから見えるのは美しい水源地帯。
地平の向こうに見える山々は未だ白く雪化粧がなされたままで、澄んだ空気のためかくっきりとその形が現れている。
ほう、と侍女の一人が息をつく。誰もが見とれる様なすばらしさであった。
「帝都にいたら中々見られないもの。子供を育てるのには、最高の環境だと思いますわ」
水は清く空気は美味しい。町の人々は素朴で、何より夫婦水入らずである。
妙な悪知恵を聞かせる小悪党もいない。塔にはエリーシャの眼で厳選されたシフォンとヘーゼルの側近しかいなかった。
次期皇帝を育てる場としてはいささか浮世から離れすぎている感が否めないが、まず子供を育てようと思うなら、これ以上は望めないほどの環境である。
「一時はシフォン様の体調が良くないと聞き、戸惑った事もありましたが……この塔に来て、本当に良かった」
身重な身での旅などできるはずもないので、エリーシャはヘーゼルのため、わざわざ転送用の魔法陣をこの塔と城に用意させた。
ヘーゼルがこの塔に来た時にはもうシフォンは大分体調が戻ってきていたので、ヘーゼルの心労は結果的に最小限に抑えられたと言える。
そうして、一月ほど経った頃に無事出産。元気な男の子であった。
「いいですね、子供って。かわいらしいですわ」
抱きかかえられている赤子を見ながら、アリスも頬を緩めていた。
「本当、そう思いますわ。この子がやがて大きくなって、この国を支えていくんだと思うと。なんだか、今はまだ全然そんな想像ができなくて、笑ってしまいます」
ねえ、と、赤子の顔を上から見つめるヘーゼル。
「ほっぺたとかぷにぷにで柔らかいですものね。見ていて飽きませんわ」
アリスの言葉に、侍女たちも「うんうん」と頷く。
「エリーシャ様も、早くこの子を見に来てくれると良いのですけど……」
既に生まれたことは伝わっているはずなのだが、シフォンの代わりに政務を受け持ったエリーシャは、女王として多忙を極める日々を送っているのだという。
解ってはいても、ヘーゼルは残念そうであった。
「失礼致します、アリス様に御用の方々が門前までいらっしゃってるのですが――」
「私に? どなたかしら?」
しばし春先の暖かな陽射しにくつろいでいたヘーゼル達だったが、息を切らせながら登ってきた別の侍女の言葉に、アリスは振り向いて問う。
「その、アリス様とよく似たお顔の……エリーセルとノアールというお名前の方々なのですが」
「まあ――」
驚いたように眼を見開きながら、ヘーゼルの顔を見る。
「アリスさんのお知り合いかしら?」
「えぇ、まあ――妹のようなものですわ」
わずかばかり困ったように苦笑する。まさか同型の人形ですとも言える訳もない。
「すみませんヘーゼル様、少し席を外しても?」
「ええ、構いませんよ。いってらっしゃい」
「ありがとうございます、では、失礼して――」
できるだけ淑やかに、ゆったりとした動作でヘーゼルの前から去っていく。
「まさか貴方達が来るなんて」
エリーセルとノアールは、門前で年老いた門衛と雑談していた。
「あら、アリス様。ごきげんよう」
「お久しぶりですわぁ」
アリスが現れるや、門衛は職務に戻り離れていったが。
二人揃って、魔王城にいた時と比べて幾分砕けた冒険者風の服装であった。
「ええ、久しぶりね。一応、旦那様周りのことは水晶である程度聞いているつもりだけど。直接貴方たちが来るっていうのは、何か理由が?」
「んー、そろそろアリス様のお身体に支障が出る頃かなあと思いまして」
「旦那様も気になさっていたようですので、こうして参ったのですわぁ」
「なるほど」
アリスも忘れていたわけではなかったが、確かに最近身体が若干重く感じるようになってきたのだ。
関節の動きが悪くなってきたというか、バランスが崩れ始めてきたというか。
そういった違和感は感じていたので、二人の用件はアリスにも理解できた。
「ご不在の間は私どもが皇族の方々をお守りしますので、どうぞご心配なく」
「でも、ヘーゼル様たちには何と言ったものかしら。まさか『魔力の透析の為に帰ります』なんて言えないだろうし……」
アリスは、この塔の人間達にはあくまで自分は同じ人間であると通していた。
その為に全く必要のないトイレやお風呂にわざわざ入ってみたりするほどで、その努力もあって今まで疑問をもたれることもなかったのだが。
生憎と今の自分がそれなりに重い立場で、すぐにいなくなる訳にも行かないのは理解しているつもりであった。
「その為に私達が派遣されたのですわ。勿論、エリーシャ女王からも認められています」
また会う事になるなんて思いもしませんでしたが、と、少しばかり苦々しそうな表情になるエリーセル。
ノアールも視線を下に落として黙り込んでしまっていた。
「……まあ、そういう事なら」
以前戦った際にはエリーシャ一人相手に完敗したこの二人である。
追及するのも可哀想だからと、アリスはそれ以上聞こうとはしなかった。
「――そんな訳で、故郷より、問題が発生したので戻るようにと、この姉妹達が知らせてくださいました」
アリスは二人を連れ、執務室で書類の整理をしていたシフォンと対面していた。
「問題、とは? 君たちの手で負える様な問題なのか?」
「故郷の町ロブレスが賊に目を付けられたとのことで……経過を見なくてはならないので、定期的に戻る必要があるようですが、これ位なら私どもで対処できるものと思いますわ」
勿論、全て嘘である。だが、アリスは嘘をつくときでも瞳を揺らがせたりはせず、しっかりとシフォンの瞳を見つめていた。
「……そういう事情ならば止むを得ないな。君は妻とも心通わせていてくれたようだから、離れられるのは寂しく感じてしまうが――いずれ戻ってきてくれるのだろう?」
「きっと。ご夫妻やご子息カシュー様のお傍にいられるよう、アリスは戻って参りますわ」
自分に愛着を持ってくれているらしいこの夫婦と別れるのは、アリスも少しばかり寂しくも感じていた。
だが、それも体内の魔力の透析が終わればすぐである。
そんなにしんみりする事もないだろうと考え、今は離れる事を優先に考えることにしたのだ。
「必要でしたら、この姉妹たちをご一家の護衛に残すつもりですが――」
「いや、賊に目を付けられたというのなら人手も貴重だろう。出来ることなら私の所から兵を貸してやりたいくらいだが……」
アリスが故郷だと言ったロブレスは、シフォンには全く聞いたこともない名前であった。
元々正体不明のまま、エリーシャのお墨付きとの事で護衛に引き入れたのである。
実際に何処の出身なのかも解らぬままでは、いたずらに兵を貸し与える事もできず。
まして、自身がこうして帝都から離れた場所に退避している手前、その護衛の兵を他者の救援のため割く事も許されまいと、シフォンは難しく考えていた。
ここにいる兵は、シフォンのための兵ではあっても、エリーシャの私兵のようなものなのだ。
彼女に忠実に働く兵士達を、シフォンの意図で下手に動かすことは出来ない。
「陛下の温情、ありがたく感じます。ですが、私が戻りさえすれば、賊など瞬く間に蹴散らしてご覧に入れます。どうぞご安心を」
自信満々に胸を張るアリス。
シフォンは、確かにこの娘なら、と、信頼していた。
さほど城内が不穏になる事もなかったので、実際にアリスが護衛として皇族に害成す者を倒した、という事はついぞ一度もなかったが、アリス自身の実力の高さは、城の衛兵らと鍛錬していたのを見てよく知っているつもりであった。
何せ衛兵らが束になってかかっても叶わぬほどの腕利きなのだ。若かりし日のエリーシャとそん色ないとすら思えるほど、卓越した剣技と体術を持っていた。
だから、シフォンは「彼女の自信は決して裏切らないはずだ」と確信していた。
「さすがアリス様ですわ。皇帝陛下にあっさり帰省を認めさせるなんて」
「地道に築いた信頼関係の賜物ですわねぇ」
皇帝との対面中、始終だんまりであったエリーセルとノアールは、塔から離れた途端にお喋りに戻っていた。
「……離れるのはちょっとだけ寂しいけれどね。善い方たちだったし。何よりカシュー様は可愛らしかったわ」
アリスはというと、わずかばかりノスタルジーに浸っていたかったのだが。
「そうそう、とうとうお生まれになったんですよねぇ。赤ん坊って、そんなに可愛いんですかぁ?」
勝手に喧しくなり始めた二人の姉妹型人形に、そんな雰囲気をぶち壊しにされていた。
「すごく可愛いわ。羨ましくなってしまうくらい」
「へえ。人間ってすごいですね、そんな可愛いものまで自分達で作れるなんて」
「いいですわぁ、ああ、私も抱いてみたいかもぉ」
人に限りなく近い外見を持ちながらも、所詮人形に過ぎない彼女たちにとって、それは永遠に叶わぬ憧れのようなものであったが。
アリスも、そんな儚い気持ちを持ったまま生きている姉妹人形達に複雑な気持ちを抱きながら、とん、と立ち止まる。
振り向き、キリ、と頬を引き締める。
「さあ、早く旦那様の元に戻りましょう。こんな所でいつまでも油を売ってる訳にも行かないわ」
それは、凛々しくも美しい彼女たちの先輩としてのアリスであった。
「そうですね」
「解りましたわぁ」
二人とも頷きながら、アリスの手を取る。トライアングルが出来上がる。
『――戻りましょう、大切な、愛しいあの方の下へ――』
三人の言葉とともに、やがて周囲に風が吹き――アリスらは、魔王城へと戻った。