#7-3.金色の笑顔
「今、この世界は重複した歴史が同時に存在してしまっていますわ。貴方は多分、一時的なりとも記憶に障害を持っているはずです。記憶の内の何割かが、デフラグを用いても修復不可能な傷を受けているはず」
「……確かに、思い出せないことはいくつかある。あるが――」
それが何なのか。考えた事もなかった。
夢で見る光景。それは確かに自分の中に眠る記憶であり、確固とした自分の歩んだ道のりのはずであった。
だが、改めて問われると「それはどうなのだろうか」と、考えてしまう。
「それは、魔族に限らず全ての生物に共通する『傷』ですわ。世界がその存在を維持しようとする余り、二つ重なる歴史を無理矢理一つにまとめようとしてできた傷。可能性を無理矢理こじつけてできた記憶のひずみ。人間も魔族も、ある期間の記憶が、時間ごと完全に消し飛んでいるはずなのです」
「……ある期間?」
「魔王エアロ・マスターが崩御した記憶。貴方は覚えてますか? あの漆黒の竜王の死を。どのように死んだのかを?」
「……」
魔王は、答えられなかった。確かに記憶に無いのだ。
「それともう一つ。魔王マジック・マスターが崩御した記憶。これも、明確にそのときの事を思い出せる存在はただの一人もいないはずですわ」
「それはアリスちゃんが――」
「あの人形は嘘をついています」
不安に駆られていた中、ただ一つのよりどころを、今この瞬間、完璧に打ち砕かれてしまった。
たった一言。それだけで魔王の自信は揺らいだ。
「揺らいだでしょう? 『確かにそうかもしれない』って思ってしまったでしょう?」
にやにやと哂う。殴ってしまいたくなるような笑顔がそこにあった。苛立ちが募る。
この女は、なんでこんなに自分を苛立たせるというのか。
「貴方も認識しているでしょうが、この世界はかなりイカレタ状態になってますわ。元々単一構造のシンプルな世界だったのが、今では無限に複製されその都度滅びていっていますし」
また、話題が変わったように感じた。煽るだけ煽って自分勝手に話を変えていく。
完全に相手のペースに飲み込まれたように、魔王は感じてしまっていた。
「それは解る気がするが。それとて、タルト皇女が過去に飛ばされた事に起因するのだろう?」
「まあ、過去に吹き飛ばされ未来に転移してってやれば、そりゃ世界は増えますわ」
「……未来だと?」
「そう。タルト皇女は過去・現在・未来、この三つの歴史を狂わせているのです。ヴェーゼル含めあの血筋の人間は歴史に関わる事が非常に多いのですが、彼女はとびきりイカレタ干渉者ですわ。関わった者すべてを不幸にしながら世界を延々行き来しているのですから」
排除できたらどれだけ楽か、と、深いため息。
魔王には及びもつかないが、これに関してはセリエラも何かしら苦労しているらしかった。
「ともかく、世界は世界で一つに戻ろうとする力が働いているのです。無数に存在する世界を一つに戻そうと。だから、多かれ少なかれそこに住まう住民にも無理が生じてくるのです」
「解るような解らんような。記憶のひずみとやらは確かに言われればそうなのかもしれないと思えるが」
「解られても困りますね。こんな狂った事」
じゃあ今までの説明は何だったのか。本当にバカにされているような気分になっていた。
「でも、認識は出来ている。だから貴方は自分の記憶に疑問を抱き、様々なところで『歴史』を調べようとした」
望んだ結果は得られましたか? と、セリエラは魔王の瞳を覗き込んでくる。
ぞくりとする栗色の瞳。何かが鷲掴みにされているような、恐ろしいような感覚に苛まれる。
「貴方は、とても稀有なセンスを持っている。私のような監視者でもなければ、他は女神でもなければ気付けないような些細な違和感を、貴方は認識する事が出来た」
彼女は、笑っているのだろうか。それとも怒っているのだろうか。
次第に、その表情が何を示すのか解らなくなってくる。
「貴方は、世界にすら流されず『自身』を保てている。これは驚きに値する事ですわ。『魔王』ですら呑み込まれる渦の中、貴方だけは狂わされずに自己を認識できているのだから」
目の前に立つ女は誰だったか。果たしてこれは生物なのか。それすらも解らなくなってきた。ぐにゃり、視界が歪む。
「だから、私は貴方に助けを求める事にしたのです」
それは、儚くも悲しい表情。
嘲りなどわずかも感じさせない、『彼女』の地であった。
「君は――」
「私は、皆が幸せならそれでいいと思います。皆が笑えればそれが一番だと思いますわ。貴方は多分、歴代の魔王の中で最もそれに近い何かを成そうとしている」
何を勝手なことを。好き勝手言うだけ言って、これは少し卑怯じゃないかと感じてしまった。
だが、もう何も言えなくなっていた。
そもそも自分が何なのか解からない。歪みきった視界は、今はもう暗く。
光一つ通さない何かに包まれたような感覚の中、最後の言葉が響く。
「こんな辛い世界、ぶちこわしちゃってください。皆が笑えるようにしちゃってください」
それはあんまりにあんまりな台詞だった。
世界の一部が、自分達をぶち壊してくれと願うのだ。悲しすぎるじゃあないか、と。
最後に見えたのは『彼女』だったのか。
金色の輝く尻尾を生やした娘の、泣き笑いの笑顔であった。
気がつけば、魔王は塔の入り口に立っていた。
もう遅い、虫も鳴かぬ深い夜の中であった。
いつの間にそこまで移動したのか。
まるで化かされたような、夢の中にでもいたような感覚。
不思議と悪い気分はしなかった魔王は、ぽりぽりと頬を搔き、塔を見上げる。
「君に言われるまでも無い。こんな世界、塗り替えてやるさ」
辛い事もあった。だが、今自分は善い人達に囲まれ、楽しくやっているではないか。
笑いたい。安穏の中居たいのだ。誰にだって邪魔させたくない。
この塔は、自分の得たものの象徴のようなものだった。
ようやく手に入れられた安寧。こればかりは守らねばなるまい、と、魔王は歩き出した。
世界のためなどではなく、自分の為に。