#9-4.英雄の兄
司書に本の貸し出し申請を出したのは、魔王からだった。
バルバロッサらは遠くからそれを見ていたが、特に怪しい動きもなく、司書に出された書類を書いているだけの彼を見て、どうやら逃げる気はないらしいとみなしたらしく、近寄る事もしなかった。
程なくして本を借り終え、一言二言何か司書に言葉をかけた彼は、そのまま出たりはせず、エリーシャが借り終わるまで待つつもりか、ソファに腰掛ける。
「お待たせ致しました。本の貸し出しでよろしいですね」
事務処理を終え、待っていたエリーシャにも変わらぬ笑顔を振りまく美人司書は、笑顔のままエリーシャに書類を差し出す。
「こちらの書類に記入をお願い致します」
だが、そう言いながら差し出された書類には、小さい付箋が留められていた。
『話をあわせてくれたまえ』
「あら失礼、ゴミがついておりましたわ」
書かれていた内容を読み、驚いて顔を上げると、それを読み取ったと把握したのか、司書はさっと付箋を取り除いてしまう。
それから何事もなくにこりと微笑み、ただエリーシャを見ていた。
(この人、もしかして――)
不思議な事は何一つ感じない。
魔力も人並み、外見的に人間と何も違わない。誰がどう見てもただの美人司書だ。
だが、感じた違和感は間違いの無いものだと思えてしまう。
とは言っても、今騒ぐのは得策では無いと判断し、エリーシャもすぐに出された書類の必要事項を書き込んでいった。
「ありがとうございました」
貸し出しの申請は簡単なもので、名前と宿泊している宿の名前を書き、それから身分を示す証明を提示するとすぐに処理は進んだ。
国から認められ確固とした地位を持っているエリーシャはともかくとして、魔王がどのようにして身分を証明したのかははなはだ疑問であるが、例によって怪しい手段を用いたに違いないと思いながら、ソファに腰掛ける中年をじと目で見ていた。
「済んだかね。では行くとしようか」
立ち上がり、妙に偉そうに振舞う彼は、エリーシャに促す。
「ええ。行きましょう」
とりあえず書かれていた通り合わせる事にしたエリーシャは、テンプルナイツに視線を向け、図書館を後にした。
「この辺りでよろしいかしら? ナイトリーダー殿?」
「ええ、ここなら人目もありませんし、何より通りから離れている」
理想の隔離通路だった。誰も居らず、誰も通らず、誰にも見えず誰にも聞こえない。
若い女性が一人で通るのは危険極まりないが、比較的治安のいいグレープ王国ではそこまで陰惨な事件は起こるまい。
壁を背にしたエリーシャ達が、ナイツに囲まれ追い込まれている形になっている。
これでは逃げようも無い。彼らにとっては好都合な配置だった。
「ではまず貴方です。一体何者であるか、素直に白状していただきたい」
「中々不躾な男だ。柄に手を向け、戦闘の準備は万端かね」
魔王は茶化す。エリーシャは解るが、恐らくアリスがいる以上、魔王はこの程度のナイト達に遅れをとる事は無い。
魔王が殺すつもりなら、今この瞬間にでも無慈悲な世界が広がっているはずである。
「茶化して煙に巻こうとしても無意味です。貴方のその隠しきれない魔力。我々にはわかるのですよ。ただの人間とは明らかに違います」
どうやらアリスに関しては何も感じていないらしく、あくまでその視線と言葉は魔王に向けられていた。
「人の身でそこまでの魔力を持つ者は限られています。エリーシャ殿のような勇者か、あるいは、大魔術師と呼ばれる程の腕利きか」
「それか、人以外の存在であるか、かね?」
魔王の挑発に、ナイツの面々は一気に殺気を膨らませ、いつ鞘から剣を抜いてもおかしくないほどの緊迫感が生まれる。
殺気から察するに、中々の練度であるとエリーシャは見る。
しかし、その程度では魔王はおろか、アリス一人に蹂躙されるだけなのも悲しい事ながら解ってしまっていた。
そのアリスはと言うと、あくまでただの侍女に扮しているのか、手にはナイフ一本握らず、ただただ事の流れを見守っていた。
エリーシャが視線を向けたのに気づくと、静かに微笑み、余裕すら見せていた。
「生憎とその想像は間違っている。種明かしをするとね、私は彼女の伯父なのだ」
不適に笑う魔王の口から出たのは、衝撃の告白だった。
「お、伯父……? では貴方は、勇者ゼガの……」
「兄、という事になるな。腹違い故、若干顔の違いはあると思うが」
エリーシャすら唖然とする中、彼女の伯父となった魔王はにやにやと顎に手を当てる。
「そんな馬鹿な、ゼガに兄弟がいたなどと、そんな話は一度も――」
「長らく旅に出ていたからね。私はその、なんだ。弟と違って放浪癖があってね。先ほどのように書物を読み漁るのが趣味で、魔法の鍛錬も、その延長で若い頃からこなしていたんだ」
人が聞けば騒ぎになりかねない捏造の事実である。
あいた口がふさがらないエリーシャだが、事こうなってはもう逃げられそうになかった。
「弟は魔界の漆黒の森で死んだと、カルナスにいた頃に聞いたが、まさか英雄にまでなっているとはね。数年前に図書館で名前を見て驚かされたよ」
人のよさそうな笑顔で、その英雄を殺した魔王は笑った。
「疑っていると言うなら、そこのエリーシャさんに聞いてはどうか。あるいは、癒しの秘術でもお見せすれば、その疑いは晴れるかね?」
話をエリーシャに向けるも、バルバロッサはそれとは別の所に興味を向けていた。
「癒しの秘術……? それは一体……」
「何だ、そんな事も知らんのか。知識の女神を奉ずる教会に属するナイトリーダーとも思えん無知さだな。笑わせてくれる」
ここぞとばかりに見下し笑う。その様は偏屈な知識人そのものである。
「ぶ、無礼な、そんな秘術があると言うなら、見せてもらおうではないか!!」
バルバロッサもプライドを傷つけられたのか、意固地になりはじめていた。
その台詞は既に負けが確定している愚者の選択なのだが、彼に残された道はそれしかない。人生とは非情である。
「よかろう。アリスちゃん、私を刺せ」
「かしこまりました」
何一つ疑いなく、アリスは魔王に命じられたままナイフを取り出し、差し出された左腕を深く突き刺し、えぐった。
「なっ――」
突然の事に息を呑むナイツらであるが、魔王は脂汗を浮かべながらも、にたりと笑っていた。
アリスが持つのはただのナイフであるが、無抵抗な魔王の腕は深く傷つけられ、血がだらだらと流れている。
「私の血は、赤くないかね?」
近くのナイトの一人にわざと見せつけ笑う。
「た、確かに赤いが……」
「そうだろう。では、これを治してしんぜよう」
言いながら、魔王は右手を傷口に向け、何節か口ずさむ。
すると傷口を中心に眩く光り、魔王の傷は見る見るうちに癒されていった。
「お、おお……これは」
「奇跡だ……このような事ができるとは」
「大司教様と同じではないか。聖人の成し遂げる所業ぞ」
ナイツの面々は驚きのあまり言葉を漏らす。
バルバロッサも、目を見開き、口を開いたまま黙り込んでしまった。
「私は、このような癒しの秘術を得意としている。残念ながら、他の多くの魔術師のように戦闘に関する魔法を扱うのは苦手だが、このくらいのことは容易くできる」
「それは、我らにとって奇跡とも言える聖なる力……それだけの力を持ちながら、何故貴方は――」
既に彼らは、目の前におわす中年紳士を敵とみなしていなかった。
無理も無い事だった。
癒しの魔法は人間世界においても貴重で、神より賜った力であると信奉されている。
当然、魔族が使えるなどとは露ほどにも思っていない者が多い。
多くの場合、その遣い手は『聖人』として崇められ、国家や教会において重宝されるのだ。
勇者ゼガの兄であると名乗るこの男が、その奇跡を事もなげに使いこなしているのだ。
この上認めないでは、教会のナイツとしての面目が立たない。
「私は、戦うのが好きではないのだ。ゼガが英雄として認められているのは解るが、私はどちらかと言うと、エルフィリースの信奉者でね」
勇者として常に魔族との戦闘の最前線に立ち、人類を守り抜いたゼガ。
賢者として常に人々の中にあり、多くの人類に救いと叡智を与え続けたエルフィリース。
奇しくも真逆な事柄で英雄となった彼らは、後の世においても対極の信者を持つ事で有名である。
軍人や勇者、テンプルナイツのように人々の希望となり戦う事を望む者にとってはゼガはある種の到達点であり偉大なる目標であるが、学者や思想家、教師等のある種のインテリ層にいる者達は平和と安寧の象徴であるエルフィリースを強く好む。
魔王は、知識の探求者である自分を見せる為に、エルフィリースの信奉を演じてみせたのだった。
「だからこそ私はこうして、彼女の文献を読み漁っている。今日エリーシャさんと会ったのも偶然だ。何年ぶりか。本当に久しぶりだったのだ」
おもむろに先ほどの本を取り出し、ナイツに見せつけながら、魔王はエリーシャを見る。
出番を悟ったエリーシャは、自分にナイツの視線が移るのを確認してから、小さく「そうね」と応えた。
「バルバロッサ殿。彼は私の伯父に間違いないわ。ちょっと人をからかうのが好きで、困った人なんだけど」
多少の恨みもこめて、エリーシャは勝手に設定付けをしていく。
「それに、父が最後に会ったのはこの伯父よ」
「なんと、そうだったのですか!?」
「ん、ああ、まあ、ね……」
それは紛れも無い事実ではあるが、魔王としても少々難しくなってしまう。
「歴史では、ゼガが最後に会ったのはミルキィレイの村の少女だったという話だが……そのような事実があったとは」
「頼むから表ざたにしてくれるなよ。その、歴史の上での最後の少女にも面子というものがあるだろう」
一応、フォローだけ入れておく。あくまで自分勝手な歴史の改ざんの為、それが伝わるのは避けたかった。
「何より、私の存在はあまり人々に知られたくないのだ。残り少ない余生だ。静かに暮らしたい」
「かしこまりました。ゼガの兄君の件。我らは見なかった事に致します」
物分り良くバルバロッサが頭を下げると、がちゃがちゃとやかましく鎧を鳴らしながら、ナイツは整列する。
敬愛するゼガの、その兄に対して礼儀を欠かさぬようにと、彼らはびしりと敬礼するのだ。
「頼んだぞ。それで、エリーシャさんに用事があったのでは?」
英雄の兄殿は、自分に関する問題は解決したと見るや、姪にさっさと放り投げた。
「そういえばそうだったわね。何の用事だったのかしら?」
エリーシャも忘れかけていた話だったが、折角戻されたので用件を聞く事にした。
「はい、実は――」
「いやしかし、君も中々やるものだね」
宿や露天商の並ぶサワー通りの一角。
魔王とエリーシャ、それからアリスはのんびりと歩いていた。
もう間も無く日も暮れようという時刻である。
「皮肉のつもりかしら。私、ああいう冗談は好きじゃないのよね」
機嫌よさげに笑う魔王であったが、エリーシャは不機嫌そのものである。
「ダブルミーニングかね?」
その言葉に棘を感じた魔王は、あえてその棘に触る。
「勿論よ。私、父の事に触れられるのは好きじゃないの」
「それは悪かった。いささか、デリカシーに欠けていたね」
魔王としても思うところはあったのか、素直に謝る。
「仕方ないわ。あの場を切り抜けるにはああいう演技は必要だっただろうし。正直、殺さずに済んだのならそれでいいかなって思う」
だが、エリーシャも以前ほどは父の事で機嫌を崩す事はなくなってきているらしく、それほど気にしてはいないらしかった。
元々物事を綺麗に割り切れる柔軟な頭の持ち主だったが、大人になりそのあたりの事がよりさばさばとしているのかもしれないと魔王は感じる。
「そんな事より教会よ。勝手に人を認定勇者にしておいて、他所の宗教に手を出すなだの改宗するなだの」
なのでやはり、エリーシャの怒りはどちらかといえば、先ほどのナイツに向けられているものと思われた。
「私のやる事に口出しするとか何様のつもりよ!! 全く!!」
言ってることは暴君そのものであるが、魔王はそれについて言及しない。
教会がテンプルナイツを通してエリーシャに通告したのは、これ以上の他宗教との関わりを避けるべしという警告だった。
同時に、とても素晴らしい自分達の宗派から宗旨替えしよう等という下らない事はするべきではないという説教も含まれており、聞いたエリーシャを大層激怒させた。
その怒りは、魔王と戦った際に見せたのと同等の鬼気迫るものがあり、控えていたナイツをも恐怖に怯えさせた。
恐怖のあまり思わず剣を抜いてしまったナイトの一人の剣を宝剣で瞬時に粉々にし、腹を鎧ごと蹴りつけた。
体格差があったにもかかわらず壁に叩き付けられた彼は、哀れにも昏倒してしまう。
突然の事に戸惑いながらも構えるバルバロッサだったが、既にその首元には宝剣の刃が添えられており、エリーシャの怒りが本気であると感じさせたのだ。
エリーシャは大帝国のみならず、教会においても正式に認められた勇者であり、その地位はテンプルナイツの遥か上、大司教と同等であった。
言ってみれば彼女は部署違いながらもバルバロッサらの上役とも言える立場であり、格下に愚にもつかない説教をされた上に剣まで向けられた形になる。
流石に非礼に気づき即座にバルバロッサは謝罪をし、エリーシャは剣を収めたが、その殺意は本物であり、対処を間違えば彼らは一人残らず闇に葬られていた可能性すらある。
「他人に束縛されるのって、嫌いなのよ。決め付けられて押し付けられるのなんて、最悪だと思う」
「解る」
魔王もそれには全面的に同意した。自分の自由を束縛するものには容赦しないのも、似ていると思ってしまう。
「君が結婚しない理由がよくわかった気がする」
今更ながらに気づいたが、そういう部分も含めて、この同胞は、自分と本当によく似ているのだと感じる。
「解ってくれまして? それなら良かったですわ、伯父上」
魔王の言葉に、たっぷりの皮肉を乗せて、エリーシャは極上の笑顔を向けた。
こうして、魔王の新たな探求は始まったのだった。