#10-3.傾国の悪女
「プラリネ姫は、絵画がお得意だそうで。芸術面においても、ガルパゴスやレゴンゾーラも唸るほどと噂に聞きますわ」
「いやはや、娘の事ながら、私には絵心が無く。そのあたりのことは全く解からないのですが、娘が評価されるというのは嬉しい限りでしてな」
話は変わる。娘の事になり、キャロブ王は素直にその流れに乗ることにしていた。
「今宵は街の有力者や近隣の貴族も集め、パーティーを催したいと思っております。キャロブ王やプラリネ姫にも、是非」
「それはありがたい。歓迎されるとは思ってませんでしたからな。用意が無駄にならなくて良い」
他国の王族や国賓を招けば、通常はその夜にパーティーを開いたりして歓迎するものなのだが、流石に状況が状況だった為、シフォン皇帝はこれができずにいた。
代わりに、と言った様子で誘ってくれたエリーシャに、キャロブ王は心底安心していたのだ。自分達は、招かざる客ではなくなったのだと。
「姫は、魔法に興味がありましてな。暇さえあれば魔術書を読み解いたりして習得しようとしているのですが、これが上手く行かないのです」
「まあ、それではプラリネ姫には滞在の間、私が魔法の手ほどきをして差し上げましょう。聡明な姫だと聞いております。きっと習熟もお早い事でしょう」
「おお、それはありがたい。皇太后殿にそのように申し出ていただけるとは」
キャロブ王は、エリーシャの興味が娘に向いている事に気付いた。皇太后は娘を欲している。そう感じたのだ。
「よろしければ、皇太后殿の元で何年か、魔法の鍛錬などさせていただければありがたいのだが」
「ええ、喜んで。きっとシフォン殿も喜びますわ」
そしてエリーシャは、自分の運びどおりに差し出されたプラリネという人質を受け入れる。
国と国の関わりごとである。人質は重要であった。
「ですが、何も急いての事でもないでしょう。せめてシフォン殿が到着するまでの間、親子水入らずでお過ごしくださいませ」
「うむ。そうさせてもらうとしよう」
もちろん、キャロブ王としては国のことは気にはなるだろうが、だからと急いても仕方ないのだ。
皇太后エリーシャはあくまで先代皇帝の妻でしかない。
政治的な決断権はある程度保持しているようだが、大帝国はあくまで皇帝一極の君主国家である。
だからして、ここでエリーシャが出来るのは決断ではなく引き伸ばし。
皇帝が来るまでの間、キャロブ王が心変わりを起こさない為に、適度に機嫌をとりつつ、キャロブ王を懐柔していく事位のはずであった。
キャロブ王は、このエリーシャの言葉を真に受けすぎず、だが、来るべきシフォン皇帝との会談までの間、待ち続けるしかないのだ。
シフォンが到着するまで幾日か掛かるとして、その後に実際に会談が開かれるのがいつになるのかの見通しはまだ立っていない。
焦らされ焦らされ、待ち続けてはいるが、だからとここで焦って自棄を起こせば全て水泡と帰す。
キャロブ王には、既に選択肢が残っていなかった。
「焦っておいでですか?」
しかし。エリーシャは待ち続けねばならないキャロブ王の心境を知ってか知らずか、挑発的に口元をにやけさせる。
「……シフォン殿を待ち続ける。それしか、我らに残された道はないのだから」
「本当にそうでしょうか?」
がたり、と立ち上がる。かつかつとゆったりとした様子で歩いて見せ、座ったままのキャロブの背後に立つ。
背もたれに胸を当て、キャロブ王の首に細い腕を回し。
「シフォン殿に頼らないと、本当に助けられないのでしょうか?」
耳元で呟く。声が吐息となって、王の耳をくすぐった。
「貴方は、何を――」
その仕草に何かを感じ、キャロブ王は不安げに振り向こうとする。
だが、それは絡められた腕で止められ、動けない。
「彼の到着を待っていては、ガトーはババリアのモノになってしまうかもしれませんわ? よろしいのですか?」
「それは……いいはずが、ない。だが――」
「だったら、貴方にとって良いようにしましょう。ガトーを、今すぐ救いたいのでしょう?」
それは、誘惑であった。自身の愛国心をくすぐる甘美な罠であると、王は感じていた。
だからこそ抗い、振り払おうとする。そんなものに乗ってしまったら最後、自身は身を滅ぼしかねないのだと。
「仮にシフォン殿が到着したとして、すぐさま貴方と会談をしてくれるとは限らないわ。それどころか、貴方の事など放置し、別の会談を始めてしまうかもしれない」
「そんな馬鹿な……一国の王を差し置いて、それより重要な会談など」
エリーシャの言葉に激昂しそうになる。だが、それは相手が大帝国の皇太后であるのだという認識によって押さえ込まれた。
これは、ただの誘い。ただ自身の心をかき乱し、失策を引き出そうとしているだけ。そう思い込み、抵抗したのだ。
だが、皇太后は笑う。まるで『そんな抵抗無駄だわ』とでも言わんばかりに。
王は、背筋がぞくりとしたような感覚に飲み込まれていく。
「あるわ。人間と魔族との、世界史上初の会談。これに勝る優先順位なんて、この世に存在しないもの」
そして、絶望的な言葉を投げかける。
世界が静まり返る。昼だというのに凍えるような風が吹いたような、そんな刺すような痛々しい空気。
開いた口がふさがらないままの王に、皇太后は笑いかけるのだ。
「貴方はきっと、後回しにされる。わずかの間が惜しいこの状況下。本当に、シフォン殿に頼りきりでいいの?」
待ち続けようとするその心は完全にへし折れる。
後回しにされてしまうかもしれないという恐怖に気付き、顔色が青ざめていくのが見ていなくても解る。
がたがたと震え始めてしまう。自分達がどうなってしまうのか。ただ飼い殺され、大切なものを失うだけ失って悲惨な結末が待っているのではないか。
そんなのは嫌だと。そんなのは冗談ではないと、王の顔色は全てを物語っていたのだ。
だから、皇太后殿は哂っていた。
「助けてあげましょうか?」
また、耳元で呟く。柑橘系の香り。亜麻色の髪が王の鼻をくすぐる。
「キャロブ王。私に従いなさい。そうすれば、貴方の国を、貴方の守りたいもの全てを、ババリアの魔手から守ってあげましょう。救ってあげましょう」
――こんなの、悪魔の誘惑ではないか。
キャロブ王は心底震えていた。恐ろしいと、感じてしまっていた。
今、自分に語りかけているのは、かつての人類の希望ではなかったか。
世界を救わんとしていた勇者ではなかったか。
だが、これはなんだというのか。これでは悪女である。
魔女であると言っても差し支えない程の悪意を感じる。
こんな女に従ったら、自分はどうなってしまうというのか。
抗わなければならない。従ってはいけない。
(だが……彼女は助けてくれると言っている)
そう。何より欲しかった言葉だった。助けて欲しかったのだ。
自分だけでは、もうどうにもならない。一刻も早く助けて欲しい。
自分の国が、民が、国をかたどっていたもの全てが、ラムクーヘンの侵略によって失われてしまう、その前に。
喉から手が出るほど欲しいその言葉を、この悪女はいとも容易く囁いてくれた。
本来皇帝のような権力などないはずの彼女が、その確約をしてしまうのだ。
それが何を意味するのか。大帝国に、二重権力構造が生まれてしまうという事だ。
とてつもなく恐ろしい事であった。自分が、今その場に立たされているのだ。
――皇太后は、この女は、大帝国を乗っ取ろうとしている。
全身から汗が噴出し、胸の鼓動が止まらない。
なんとも強かな女であった。美しいだけでなく聡明で、そして何より恐ろしい。
なるほど、先代皇帝殿もこの女に上手い事やりこまれ、晩年の失策とも言える異行を行ってしまったのだろうと、納得できてしまう。
これは悪女である。傾国の悪女であるという彼女に当てられた評価は、至極真っ当であった。
こんな女に関わっていては身が滅ぶ。逃げなければならない。
だが――王は、逃げられなかった。
「……本当に。本当に、ガトーを救ってくれるのか?」
搾り出すような声。まるで拷問のような空気の中、王は震えながら、決断を下さねばならなかった。
皇太后は笑う。満足だと言わんばかりの笑みだった。
まるで下手人からの自白を得て笑う警備兵か。それとも無垢の民に罪を着せて喜ぶ暴君か。
とても元勇者がするとは思えない、ロクでもない笑顔であった。
「もちろん。貴方が私に従うというなら、私は貴方の国を守ってあげますわ。ええ、いつまでも」
にたりと口元を歪ませながら、再び席に戻る。
ティーセットに備え置かれた鈴を鳴らし、一分ほど。
『失礼致します』
こん、こん、というノックと共に、そんな声が聞こえ、ドアが開かれる。
入ってきたのは冒険者風の出で立ちの、若い娘だった。
飴色の髪の、エリーシャの肩ほどの背丈。釣り目がちで、なんとなく気の強そうな印象を受ける。
「紹介しますわ。私の弟子のエリーセル。とても優秀な娘なのです」
「エリーセルと申します。お初にお目にかかりますわ」
「う、うむ……しかし、皇太后殿、この娘がどうだというのだ……?」
突然第三者が現れ、王は混乱しそうになっていた。心理的にかき乱され、疲弊していたのもある。
突然の事に頭も心も対処しきれず、ただ飲み込まれるままになっていた。
「この娘と配下の数名を、ガトーに派遣しますわ。この娘自身も強いですが、各々政治や軍事に関するスペシャリストとして教育していますからご心配なく」
「お、おお、そういう事か……」
「内部から建て直しましょう。今のままでは長く持ちませんわ。応急処置ではなく、多少過激でも内部からの大改装を行わないと、貴方の国は何もせずとも遠からず滅びてしまう」
そのための先遣隊みたいなものです、と、エリーシャは笑った。
もう悪女の顔ではなく、元の爽やかな美女の顔に戻っていたが、一度呑まれた王は、もうその笑顔を見ただけで圧倒された気分になってしまっていた。
「私の動かせる駒は限られているわ。だから、私はもっと駒が欲しい。貴方が私の駒になってくれれば、私は貴方を救い、貴方の救いたいものを助ける。ギブアンドテイクって素晴らしいと思わない?」
「……飲もう。元より、アルム家に頭を下げ、膝をつくつもりで来たのだ。貴方の元に降ろうと構わぬ。助けてくれるなら、それが何であろうと構わぬ」
王の決断であった。彼は、悪女の手を取ったのだ。
「そう。ありがとう。これで私の望みは近づいたわ」
まるで女神様のような笑顔で、エリーシャは微笑む。
ハッとするような笑顔が、キャロブには恐ろしい、全く別の何かに見えて仕方なかった。
こうしてガトー国王キャロブは、国を救ってもらう代償に、皇太后エリーシャの下に加わった。