#11-1.偽傷1
そこは、昏い世界であった。
何一つ無い、虚ろな色の支配する空間。
ただただ途方も無く、ひたすらに終わりの無い無間。
彼は、そんな場所に、ただ一人で待ち続けていたのだ。
人の形をした空ろな生き物。
外殻こそ生物らしく、だけれどその内包するモノは明らかに異質。
誰もが望み、誰もが希い、そして、多くの者が手にする事の叶わぬモノ。
それが、彼の本質。泉により彼が与えられし命であり、そして――彼自身を苦しめ続ける宿命でもあった。
――勝利。ただそれだけのちっぽけな概念が、本来形すらもたないモノが泉の力によって無理矢理形となった生き物。
それは、明らかに歪で、そして、空虚な存在であった。
彼は、勝利以外の何も持ち合わせていなかった。
戦えばただ勝つだけの存在であり、生まれながらにして全生物の頂点となる勝者であった。
勝利の前に歯向かうモノは何一つ例外なく敗者であり、事実、彼を阻もうとした全ての存在は誰一人残らず彼に屠られた。
だが、ただそれだけだったのだ。何も無い。
何かを考える知能もなく、自分の存在すら何なのか理解できず、ただ、自分に何かをしてきたものを機械的に敵とみなして殺す事しかできなかった。
それが、もしかしたら何かを伝えたくて起こした行動だったかもしれないのに。
もしかしたら、彼と仲良くなりたくて肩を叩いただけだったかもしれないのに。
彼は、何一つ、何の思慮も無く殺し続けた。それ位しかできることがなかったのだ。
「貴方って可哀想ね」
ある時、空からこんな声が届いた。
声に反応し見上げた彼が見たのは、神々しく輝く女だった。
金色に輝く長い髪と瞳。肌はどこまでも白く、身体の周囲に浮く衣はなんとも不思議な色合いで漂う。
ぱっと見で幼さを感じさせるような少女めいた顔立ち。それでいて大人びた雰囲気。
冷酷さや厳しさをも感じさせる視線の強さ。なのに口元は、柔和さすら感じさせる笑みを湛えていた。
女は、宙に浮きながら、呆れたように彼を見下ろしていた。
「ねえ、貴方は何の為に生きてるの?」
自分に対して無感情に視線を向けている彼に、女は問うた。
「……」
彼は答えない。微動だにしなかった。
「何も解からないのね。解からないという事すら解からないのかしら? ええ、そうね。解かってたわ」
それ以上返答を待つことはせず、女はあっさりと自分で結論を引き出していた。
そんな事は、彼女には解りきった事だったのだ。
「私の名前はファズ・ルシア=リーシア。この世で一番最初に生まれた生命、そして、この世で唯一、貴方の苦しみを理解できるモノよ」
不思議と、彼はリーシアと名乗った女に対し、敵意を感じなかった。
自分の前に降り立つ女を迎撃するでもなく、ただ見ていたのだ。
何も言わないのは喋る能力を持たないから。喋る方法を知らないから。
彼は何も知らない。彼は何も出来ない。
ただ一つ。勝つための行動以外の全てを彼は知らない。彼には、何かを教えてくれる存在などいなかったのだ。
生まれながらに孤独。親も兄弟も隣人すらもいない。気がついたらそこに立っていた。
今まで彼の周りにあったのは、これから死体になる生き物と既に死体になった元生物のどちらかだけだった。
勝利とは、とても空虚なものであった。ただ勝っただけの彼には、何も残らない。
その虚しさが、リーシアにはとても哀れに思えたのだ。
そして同時に、それは彼女自身が覚えのあるモノでもあった。
「可哀想に。生まれてきてしまった意味も解からないのね。私も、ずっと解からないままだった。でもね、解った時には、それを知ってしまった時には絶望するの。とても辛いのよ。貴方だけじゃないわ。貴方は、一人じゃない――」
慈愛のこもった瞳で見つめる。静かに。ただ優しく、彼の髪に手をやり、頭を撫でた。
まだ少年だった彼は、自分の前に立った、このワケガワカラナイイキモノに、生まれて初めて困惑を覚えていた。
心の無い彼を、乙女は優しく抱きしめる。不思議な色に光る衣がふわり、彼の耳をくすぐった。
「貴方は私の弟のようなもの。ああ、愛しき命よ。どうか、寂しい人生だけは歩まないように。泉に与えられた役目を、ただ全うするだけの存在にはならないで」
それは、切実な想いだった。哀しみのこもった、女神の願いであった。
「お前はなんだ?」
場面が変わる。そこは、後ろ暗い夜の世界。
人の死に絶えた廃墟で、彼は立ち尽くす。
彼の前に立つのは、女神とは別の女。
背丈よりも長い金色の髪。
澄んだ、それでいて感情を感じさせない碧色の瞳。
この世のモノとは思えないほど美しく、無機質に整った顔立ち。
その背には、どの鳥でも真似る事の出来ないほどに映えた、純なる白さを持つ羽毛の翼が揺れ。
身に纏った布切れですら神々しく、布から溢れた肢体は瑞々しく、全ての要素が彼女を美しく、冷たく彩る。
全てを破壊せしめた彼の前に、突如舞い降りた女。
それが何なのか疑問に感じたのは、彼としては成長したからか。
事実、彼は最早少年の姿ではなく、いっぱしの青年の顔をしていた。
背も伸び、その背丈は目の前のこの女よりも高い。
何より今の彼は、その世界の魔族の頂点、『魔王』として君臨する覇者であった。
「天より堕とされました。この上は行くあてもありません」
しばしの沈黙の後、魔王となった彼の前に、女は跪き、頭を垂れる。
澄んだ美しい声だった。耳に残る、心を揺さぶるような声。
あの女神と違う、意志の強さを感じさせる鋭さも備わっていた。
「天から……?」
「私は天使でした。訳あって、神々の世界から堕とされ、今に至ります」
感情の感じさせない口調で語る女に、彼は不思議な感覚を覚えていた。
それは親しみとも言えるものだったのだが、その時の彼はそんなものは解らず、不思議なものは不思議なまま、投げ捨てられる。
「お前は私の敵なのか?」
背中から羽毛の羽を生やした女を初めて見た彼は、それが敵なのか味方なのか、それすらも判別をつけかねているらしかった。
問いに、女は小さく首を振る。
「敵対する理由がございませんわ。また、敵対して勝てるとも思えません」
「では敵ではないのか」
「貴方が私のことを敵視しなければ」
女の言葉と共に、場は再び沈黙に支配されていた。
彼としてはとても珍しい、頭を使う場面であった。
自分が判断する事なんて、滅多にないことなのだ。
「敵じゃないならどうでもいい」
しばしの思考の後、彼はこう言って背を向けた。「最早この場に用はない」とばかりに。
「では、お傍においてくださいませ」
彼の背に向け、女の声が届く。
「何故だ?」
彼自身、何故そんな疑問を投げかけたのか不思議だった。
他人に対して興味の向いている自分に、未知の感覚に困惑していた。
「私は天使でした。ですが、これからは安穏と平和を享受する事も難しくなりましょう。貴方の庇護を受けたいのです」
「意味が解からない」
「では簡潔に。私を支配してくださいませ。私の主となってくださいまし」
ちらり、後ろを見る。
女は、頭を垂れたままであった。
口調こそ無機質だったが、その仕草はどこか毅然としており、情けなさなどは微塵も無い。
先日自分の下に降った竜王などとは違い、その様は一種の美しさすら感じさせる。
「……私は敵じゃないなら何だっていい。好きにしろ」
彼女が何を願っているのかよく分からないままであったが、なんとなしに部下になりたいらしいと感じたので、彼はなるように任せることにした。
「ありがとうございます」
一層深く頭を下げると、女は顔を上げた。
美しく澄んだ金髪がたなびく。魔王の視線は自然、吸い寄せられた。
「私はヴァルキリー。『王剣』ヴァルキリーと申します。魔王様の剣として、この身、尽くさせていただきますわ」