#9-2.図書館にてたたずむ2
「ふぅ、ようやく魔界から出たな……」
悪魔王に後を任せた魔王は、人間サイズのアリスと二人、森の中を歩いていた。
余所行きの装いで漆黒の外套を羽織り、左手には上等な保護布に包まれた長剣。
アリスはというと、薄緑のケープを纏い、おとなしめの赤いエプロンドレス姿である。
ここはかつて、人間世界の東部だった地域。
緑に支配された、静かな世界だった。
「いやあ、ただの散策一つでも、なんというか、いい感じだな、この森は」
魔界によく見られるような漆黒の森や常夜の森と違い、この森の自然は大変歩く者に優しく、視覚的な癒しすら与えてくれていた。
自然、魔王も口元を緩めてしまう。
「木漏れ日が気持ち良いですわね。魂がうろうろしてないのも他の森と違ってポイントが高いです」
アリスはアリスで、独特の森の見え方がしているらしかった。
ぐぐ、と可愛らしく背伸びなどし、その身を小さく脱力させる。
「魂がうろついてないってことは、この森で死んだ人間はいないって事かな?」
「どうなんでしょうね。少なくとも、無念の死を迎えた人はいないのでは?」
通常、人が死ねば魂は天に登り、雨や雪となって地に舞い降り、地と同化したり、そのまま川の一部となってその世界から旅立つ事になる。
だが、死して尚その魂を縛り付けるほどの情念を抱いた者は、いつまでも天に登る事が出来ず、その辺りをうろうろ彷徨う事となる。
これが人間視点では幽霊だとか精霊だとか言われるらしいのだが、実際にはそれは、人格も何もないただの自然現象である。
戦場等ではよくあるものなのだが、それに限らずとも人が生活していた場所ならば想いを残して死ぬ者は少なからずいるはずで、この森のように、全くそれが存在しないというのもそれはそれで珍しいものであった。
つまり、それだけ平和だったのだ、この辺りは。
斜めに見たならば、何もない地域だったという事。それに尽きる。
「まあ、こんなに気持ちよく歩ける森があるんだ。それだけで十分だろうなあ」
そんな、森以外に何もないような場所にも、人間は暮らしていたのだ。
この森一つでも、自分たちと人間達とでは受け取り方が違ったのだろう、と魔王は想像した。
アリスもそんな主に気を遣い、澄ました顔で隣を歩いていた。どこか幸せそうに。
「旦那様、もうすぐ到着しますわ」
森が開けていくのを感じ、アリスが主の顔を見上げる。
「うむ。ここがミルキィレイか……」
そこは、廃村であった。緑に支配された村。緑に侵食された村。
自然に取り込まれたような、自然の一部になってしまったような、そんな村跡だった。
「思ったよりも侵食の度合いがすごいな……人間世界の植物も、存外逞しい――」
家々に絡みつき、めり込み、蚕食しているツル植物。コケのような見た目の菌類の集合体。
まるでそこが苗床であるかのように、壁に直接根を張る色とりどりの花々。
そこはもう、植物達のテリトリーとなっていた。人の住まう場所ではない。
「でも、少し手入れをすればまだ住めそうな家もありますよ?」
ほら、と指差すアリス。その先には、やや大きめの、くたびれた家屋が建っていた。
「ほう」
魔王が見ると、そこだけは不思議とツルに侵食されておらず、汚れは目立つものの、なるほど、確かに辛うじて人のテリトリーであると感じられた。
「二人はここにいるのか?」
「はい。こちらにどうぞ――」
案内するように家の中に入っていくアリス。
魔王は、のんびりその背についていった。
「……アリス。と、おじさん?」
案内されるままについてきた、小さな部屋。
ベッドに横たわったエリーシャは、突然現れた二人に驚き、起き上がる。
「やあやあ、エリーシャさん。しかし、その様子は――」
再会を喜び、笑いながら話しかけようとして、しかし。
――廃村。負傷した勇者。くたびれたベッド。
「……あぁ――」
どうにも、いやな光景を思い出してしまってか、魔王は最後まで声を出せず、その場でふらついてしまう。
「旦那様……?」
主を心配そうに見上げるアリス。魔王は「大丈夫だ」と、軽く手を振った。
「ちょっと、何疲れた顔してるのよ。辛いなら座ったら?」
エリーシャは、そんな魔王の様に、苦笑しながら椅子を指す。
負傷していたはずのエリーシャのほうが、魔王に気を遣う始末であった。
「いや、なんでもない。それよりエリーシャさん、容態はどうかね?」
「どうもこうもないわ。そこの侍女がいつまで経っても開放してくれなくて困ってる位」
エリーシャが見ていたその先には、いつの間にか見慣れた侍女が立っていた。
「おや……」
「……」
特に何も言うでもなく、ぺこりと頭を下げる侍女。
どうやら、エリーシャの前では侍女ラズベリィで通すつもりらしかった。
「それで、何の用事できたの?」
相変わらずじと目で見てくるエリーシャに、魔王は「そうだった」と思い出したように、わざとらしくぽん、と手を叩いた。
「君に、一つ尋ねたい事があってね」
「尋ねたい事?」
怪訝な面持ちだった。魔王は今一信用されていないらしい。当然といえば当然なのだが。
「君の家のことだ。勇者ゼガ、そして、そこに至るまでの、家系の話だね」
「なんで私の家のことをおじさんに話さなくちゃいけないのよ」
「気になったからね。なんというかその、大切な事だから茶化さないでくれると助かる」
どちらかといえば魔王のほうが茶化した態度だったように感じていたエリーシャだが、彼は一応真剣であるらしかった。
「……」
しかし、それでも納得いかないと、エリーシャはじーっと、抗議めいた視線を魔王に向ける。
「私、シブースト様の事、まだ忘れてないわよ」
まだ恨んでるんだから、と、魔王を見つめる。
「もちろん、その恨みはいずれ私に直接ぶつければいい。だが、今は無理だろう?」
「……それは、そうだけど」
「話を聞かせて欲しい。とても大切な用事だ。そうじゃなきゃ、私はここにはいない」
エリーシャの向ける恨みがましげな視線よりも、魔王の真剣なそれの方が勝っていた。
次第に見ていられなくなり、エリーシャはばつが悪そうにそっぽを向いてしまう。
「――何を知りたいのよ」
悔しげに呟いたそれを聞き、魔王は嬉しそうに目を細めた。
「まず確認をしたい。君は、自分の家名を知っているかね? 正確には、かつて家系が持っていた家名、か」
「……知ってる。昔、シナモンの村長から聞いた事があったわ」
「村長から?」
エリーシャの返答に、魔王は少し意外そうにその顔を見る。
「ええ。私のお爺さんとも友達だったから。それで、それがどうかしたの?」
「いや。できれば、それを教えて欲しいなあ、と」
「レプレキアよ。かつて私の家が、シナモン近郊の領主だった頃の家名。今じゃ没落して、ただの村民だけどね」
自分の家が貴族様だったなんて笑っちゃうわよねー、と、エリーシャはおどけて見せた。
「レプレキア……ふむ、そうか」
対して、魔王は神妙な面持ちでそれを受け取っていた。
「どうかしたの?」
「いや……」
考え込み始めた魔王に、何事かと見上げていたエリーシャであったが、魔王はすぐに次の言葉を切り出した。
「レプレキア家は、元々はどんな家系だったか、とか、分かるかね?」
「知ってる限りじゃ、旧バルトハイムの軍人の家系だったとか、それ位かしら。どういう経緯でシナモンにきたか、とかは解からないわ」
「バルトハイムか……懐かしい響きだ」
やはりそうきたか、と、魔王はにたりと笑った。
「懐かしいって……ああ――」
そういえば魔族だった、とエリーシャは思い当たったのだが、ラズベリィの手前、それを言う訳にも行かず。
寸でのところで口元を押さえ、黙りこくった。
「ありがとう。面白い話を聞かせてもらった。助かった」
「はあ……? まあ、いいけど」
よく分からないことをのたまいながら、手をシュタッと上げながら部屋を後にする魔王。
アリスもぺこりと可愛らしく頭を下げ、主の後についていく。
「何だったのかしら……?」
「……さあ」
後に残ったのは、初めからこの部屋にいた主従であった。
「旦那様、こちらの本はいかがでしょうか?」
場所は変わり、グレープ王立図書館。
魔王は資料探しをしていた。
「んー……いや、だめだ。この著者の本は脚色が多い傾向が強い。資料としてはあてにならん」
「かしこまりました。では他の本を探してみますわ」
「頼んだ」
それらしき書物を片っ端からアリスに持ってこさせ、調べる。
よければテーブルにストックし、ダメならば即座に戻させる。
かつて周囲の迷惑を顧みず実行した時と同じそれを、今回も実行していた。
ただ、今回違うのは、周囲に他の客がいない事、エリーシャがいない事、そして――
「陛下、お探しの時代でしたら、こちらの書物がよろしいかと」
美人司書が魔王の補佐をしてくれている事であった。
「ほう、面白そうな本だな」
興味深げに差し出された本を受け取る。ぱらぱらと流し読みすると、魔王は目を見開いた。
「いいなこれは。視点も比較的公平だし、著者も信頼の置けそうな資料を多数書いているようだ」
「お気に召したようで何よりですわ」
ウェーブがかった綺麗な金髪をあおりながら、司書は微笑んだ。
「さすがに長年司書をやっているだけはあるなリルニーク。少し急ぎの件なのでな、すまないがこの調子で頼む」
「お任せください。この図書館は私のテリトリーですわ。お求めの資料、必ずや陛下の手元に」
恭しげに頭を下げる美人司書。その態度は、紛れもなく主に対する、あるいは上司に対するそれであった。
「うむ。アリスちゃんはリルニークの指示に従って本をとってきたほうがいいかもしれんな」
「はい。そうさせていただきますわ」
小さく会釈するアリスに、リルニークも微笑みながら「よろしくおねがいします」と笑う。
リルニークは、元々は魔王が人間世界の知識や資料を獲得する為に放っていた諜報要員である。
悪魔族の中でも特に書物の扱いに長けている種族『ハーミット』の出の者で、本来は魔王城の自動図書館を管理するのが主な職務であった。
頭に左右サイズの異なるヤギ角を生やしていたり、イヌのような尻尾を生やしている以外は人間と近い容姿で、性格も比較的穏やかで魔族としては珍しく自己主張が少ない、言ってみれば人間世界に溶け込みやすい種族である。
能力の大半を知性に全振りしてるような生き物で、体力が全くと言っていいほどない為戦闘には向かないが、読んだ書物は一字一句全てを記憶すると言われており、司書としてはとても有能である。
そのような有能な司書であるが、現在はこの王立図書館をテリトリーとしている。
人間にとってみれば働き者でその上美人というリルニークは、国からの信頼も厚い立派な公務員というとても便利な立ち位置に収まっていた。
今この図書館が貸しきり状態なのも、彼女への信頼あっての事である。
「君も文官としては優秀そうだが、だが図書館から出ると死ぬのでは仕方ないな」
「ええ。私共は図書館と共にあるからこそ存在できる生物ですから」
度を越した本の虫とでもいうべきか、ハーミットは場に本が多ければ多いほど活動的になり、逆に本の全くない環境に置かれると衰弱死するというとても残念な特性を持っている。
生まれながらにして重度の引きこもり。図書館から出たら死ぬ生き物というレッテルが彼女たちを端的に表している。
扱える魔法は強力で、純粋な魔法の撃ち合いならウィッチやウィザードに匹敵する火力を持っているのだが、彼女たちの主戦場は図書館であり、それらが発揮される機会はまずないと言える。
何故こんな方向に進化してしまったのかも謎だが、魔界というカオス極まった世界においては、それはある種の環境適応足りうる何かなのだという。
「もったいないなあ。君のその知性、実に惜しい」
ハーミットという種族だからこその知性なのだが、その利点は、ハーミットという種族な所為ですべてが台無しであった。
「魔界にはラミア様がいらっしゃるではないですか。あの方ほどの知恵者はそうはいないはずですわ」
私などラミア様に比べれば、などと謙遜もする。
「こんなところにもいたのか、ラミア信者」
意外と多いな、と、魔王は苦笑してしまう。
「はい?」
「いや、なんでもない」
不思議そうに首をかしげる部下を前に、魔王は静かに本の中へと意識を戻していった。