#10-3.月は無慈悲な夜の女神
「北部諸国連合への攻撃、またも失敗に終わりました」
「また負けたの? どれだけ堅牢なのよダリア要塞……」
所変わって魔王城・参謀本部では、北部諸国連合相手の苦戦続きで要員達の間に疲労の色が漂い始めていた。
既に攻撃開始から一月近く経過しているが、一向に戦果らしいものが挙がっていない。
「はい皆、気を取り直して次の作戦に取り掛かって!! まだまだ打つ手なしと決まったわけじゃないわ。それに攻め続ければ敵は疲弊する。わずかに見せた隙をいつでも狙い撃ちできるようにしなさい!!」
「はいっ」
「解かりました、ラミア様」
「次の作戦配置に取り掛かります」
パンパン、と手を叩き、その場をまとめたラミア。
上司の言葉にやる気を取り戻し、参謀本部の面々は再び自分たちのデスクに置かれた水晶やぱそこんに向き直る。
ある者はぱそこんで人間世界全体の動向と推移を監視し、またあるものは水晶で現地の指揮官達に指示を下していく。
スクリーンに映った現地の映像をつぶさに観察し、どこかに隙はないかと窺う者もいた。
皆、この堅牢な要塞と防衛ラインを陥落させるべく、必死になって職務を全うしている。
(……陛下からは時間稼ぎの為の作戦だと言われているけれど……だからと手を抜く訳にも行かないわ。皆真面目に働いてるんだもの。前線の兵の命とて有限な物。無為な作戦は立てられないわ。それに――)
部下たちの必死な様を見ながら、ラミアは銀色の眼を赤く染めていく。
自然、口元は好戦的にゆがみ、胸の高まりを抑えきれずに顔はにやついていく。
(こんな楽しそうな戦場、久しぶりだわ。ああ、なんとしても倒してあげるわ、カルバーン!!)
難攻不落の防衛ライン。その陥落の為の指揮こそが、今のラミアにとって、なんとも魅力的な『愉悦のひと時』であった。
「北部の全兵力に通達。敵の増援が到着した直後が狙い目よ。油断しきった奴らの首筋に、我等の牙を突き立ててやるのよ!!」
(ラミア様、すごく楽しそうだわ……)
(相変わらずラミア様は良い顔するなあ)
(やっぱりラミア様はこうじゃないと)
テンションが上がり始めた上司の姿に、部下たちは心底癒されながら職務に身を入れ始めた――
「なんですって、バルバロッサがこちらに向かっていると……?」
対して、北部諸国連合が防衛ラインを敷くダリア要塞では、教主カルバーンが防衛の指揮を執りながらも、教団本部からの報を受けていた。
「はい、ナイトリーダー殿をはじめとするナイツ五十名と、本部防衛のために残した予備兵力一万の、その多くをこちらに移そうとしているらしく――」
報告の内容は、バルバロッサによる増援派遣の報告。
指示をした覚えの無いカルバーンには寝耳に水な話であったが、それで取り乱すほど彼女も子供ではない。
「そう。彼なりに考えがあってのことだろうけど……まあ、いいわ。今は夏だし」
象徴たる父に万一があっては困るからと、以前見た夢を恐れ、教団本部に多数の兵を残しはしたが、思いのほか敵軍の執拗な攻撃に晒され、この辺りの防衛ラインでもところどころ死傷者が増え始めていた。
最新兵器とそれに伴う新戦術、そして教団の魔法による効果的な防衛によって毎度被害は最小限に抑えられてはいるものの、それでも尚万全とは言いがたく、また、魔王軍の動きも日増しにキレが増していて、どうにも油断ならない。
増援が来るというならそれも悪くない、とカルバーンは素直に受け入れることにしたのだ。
「ま、バルバロッサに皮肉の一つも言ってやるつもりだけどね。とにかく、増派の話は了解したと伝えて頂戴。私は次のステップに進む為の作戦を考えてるから」
「はっ、承知いたしました」
何より、カルバーンの狙いはこの防衛ラインの構築にとどまらないのだ。
ここの守りを確固たる物にした後、次に起こすのは中央部における魔王軍の掃討。
大帝国が息切れしてしまう前に行動に移さなくてはならないのだ。あまり時間は残されていなかった。
「ふぅ、良い湯だ」
魔王は、のんびりと湯で温まっていた。カロリに続き、テトラでも温泉である。
美容に良いというカロリのクロッカス温泉と違い、この『ガーベラ温泉』は疲労回復や外傷の治癒に優れた効能を発揮するのだとかで、怪我人の為の長期療養を目的としたサウナもあるほどである。
カロリといいテトラといい温泉が多いのは、ディオミスに連なる山岳地帯特有のものらしく、これが旅人には無上の癒しとなっていた。
時間帯は遅く、既に周りに湯客の姿も無い。
最初はちらほらと居たのだが、二時間、三時間と浸かっている内に誰も居なくなったのだ。
ちなみに男性用は無く混浴である。女性用はあったので、黒竜姫は既にそちらで身を清め、今は部屋で休んでいるはずであった。
「魔界ではあまり長い時間、風呂に浸かることはなかったが……こうして何時間も浸かっていると、頭がぽやぽやとしてなんというか……心地いいなあ」
自分がのぼせはじめていることはあまり気にしていないらしく、魔王はゆったりとした気分で手足を伸ばしていた。
空には満天の星空。美しい満月の中に黒い三日月が現れる『ダークフルムーン』と呼ばれる現象が、夜空をなんともロマンチックに彩っていた。
「あの月も、私の旅を見守ってくれているかのようだ。なんか珍しいし、な」
それを満足げに笑いながら、にかりと笑う。
「ダークフルムーンって、すごく不吉な象徴なんですけどねぇ、人間世界では」
「――!?」
突然の若い女の声、そして突然湧いたその気配に、魔王はびくりと身をひるませ、振り返る。
「……なんだ、君か」
誰かと思えば、見知った女神であった。バスタオル一枚の女神というのもなんとも奇妙な出で立ちだが、不思議とバイトをしていたことよりはマシなように思える。
「お久しぶりねぇドルアーガ。あんまり驚かないのね?」
気づいた後の反応が思ったよりも薄かったからか、女神リーシアは不満げに首をかしげていた。
「いや、かなり驚かされたが」
だが、突然現れたことに関して間違いなく驚きはしたので、魔王は素直に白状した。
おもむろに女神から離れるように端の方に移動する。
この女神に背中を向けたままというのは、なんとも居心地が悪かったためである。
「あ、何も離れなくてもいいのに……ちょっと傷つきますよその態度?」
「好きなだけ傷ついてくれたまえ。私には何の関係もないことだ」
何をしでかすか解からない。だからあまり関わりたくない。
魔王はできるだけ女神と距離を置こうとしていた。
「まあ、いいけどね。そういう風にされるって解かってたし」
その反応も解かった上でやってたんですけどねー、と、しれっとのたまう。
なんとも鬱陶しい女神であった。
「それで、何の用事かね? 君は、私のしようとしていることを見守るつもりなのではなかったのか? それとも何かのきまぐれかね?」
アプリコットで最後に話した際、彼女は魔王のこれからの行動についてやや肯定的に受け取りながら、それを見守るのだと発言していた。
魔王としては彼女が余計なことをしないのはとても助かるので心底安心したのだが、それがこうも覆されるのではたまったものではない。
確認せずにはいられなかったのだ。
だが、そんな魔王の問いに、湯気越しながら、女神は不思議そうに首を傾ける。
「なんで私が貴方の行動を見守らないといけないの? 私、色んな世界の魔王たちの行動見守るのでもう精一杯。すごく疲れてるんですけど?」
疲れすぎて温泉に浸かりにきちゃったー、などとおちゃらけて見せる。
ばちゃばちゃとお湯を手で跳ねたりしながら、楽しげにはしゃぐのだ。実に子供っぽかった。
「ま、貴方がそう疑問に思うのは解かりきってたけど、貴方はまずそれ以前に、大きな疑問を一つ、見逃しているわ」
そうかと思うと、とたんに真顔になり、すすー、と、魔王の元へと膝歩きして近寄ってくる。
控えめながら女性らしさあふれる胸元が魔王の膝辺りまでくると、わずかに微笑みながら魔王の耳元に顔を寄せる。
「果たして私は、『貴方の知っている事柄』に対し、そこまで真摯に向き合ってくれる女神だったかしら? 魔王の討伐? そんな事をされて、果たして笑顔でそれを認められるような放漫な女神様だったかしら、ね?」
鈴のような声。やや幼さを残しながらもはっとするような美しさの女神。
全てがあのバイトをしていた時の女神と何の違いもない。
だが、その性質は、魔王が最近見た女神のそれとは明らかに異質であった。
慈愛など欠片もない。否、彼女にあるのは自愛のみである。口元がいやらしくゆがむ。
「忘れてはいけないわ、ドルアーガ。私は貴方達の事を愛してなんていないし、他の魔王について責任を感じてはいても、愛されたいなんて微塵も思っていない。私が求めるのはただひたすらに、私が滅びるその時までの暇がつぶれる何かだけ」
なんともむごい台詞であった。とても人類から慕われている女神とは思えない容赦の一切無い台詞であった。
「もちろん、貴方達が困っていたりしたら助けてあげるし、頼まれれば知識を授ける位はしてあげるわ。だけど、それだけ。別に私は見返りを求めたりしないけど、魔王となった者達に何かを期待してる訳でもないの」
ただ強いから魔王にしただけなんですよ? と、女神は微笑む。
「貴方は特別強かったし、広義的に見て私の弟みたいなものだから、それなりに気にはしてたけどね。同じ意味で妹のヴァルキリーも貴方にあげたりしたし」
「……さっきから、君の言ってる事が何一つ理解できないんだが」
違和感はある。だが意味がわからない。この女神は一体、自分に何を伝えようとしているのか。
だが、女神は小さく首を横に振る。
「考えなさいドルアーガ。知識は貴方に考える力をくれるはずよ。貴方は今まで何をしていたの? 最愛の仇敵を失い、旅の果てにヴァルキリーまで失い、貴方は何を得たの? それらを無駄にするつもり?」
私に頼るな、と、女神は突き放すのだ。
その瞳の意志の強さ……知識の女神としての厳格さ。
ただ与えるのではなく、考えることを求め、その答えを搾り出させようとする姿勢。
試すような視線。すべてを見通したような澄んだ色の瞳。
すべてが、魔王がよく知る女神のそれであった。
「……そういう事か」
しばしの思考の後、沈黙の中、魔王はようやく得心が言った様子で一人ごちる。
「ふふっ、私が言った通りに知識を積み重ねてきたようね。ようやくにして貴方は、ただ流されるだけの石ころではなく、そこに踏みとどまれる一つの岩へとなれた。それはとても素晴らしい事よ」
ほう、と満足げに微笑む女神。
「もう貴方は、ただ目に付くものを殺すだけの哀れな生き物ではなくなった。誰かに言われそのままに運命を操られるような愚かな生き様を晒すこともないわ。貴方は、初めて独立した一個の人格として、自由に歩み始める事が出来たのよ」
その微笑みは、アプリコットで見たあのバイト女神の、その何倍も慈愛に満ちていて、そして、美しかった。
「おめでとう、ドルアーガ」
知識の女神リーシアは、心の底から彼を祝福していた。