#8-1.睡魔の成せる効能
それは、ある初夏の日のことであった。
昼の強い陽射しを避け、一休みとばかりに座り込んだ巨木の下。
布に包まれた長剣を傍に置き、ゆったりうたた寝をして起きる気配の無い紳士風の中年に、水色のワンピース姿の黒髪の娘は困り果てていた。
(……陛下、いつになったらお起きになられるのかしら……?)
ようやく背中辺りまで伸びた黒髪を艶やかに、それでいて自然に煽りながら、黒竜姫は目の前に眠る魔王を眺めていた。
北部の教団を仕切っているのだという双子の妹カルバーン。
それが本拠地であるディオミスを離れている間がチャンスだと聞き、急ぎの旅だからとろくな仕度もせず連れ出された訳だが。
実際についてきてみれば、ヘレナまでは転送で来たものの、そこから先はのんびりと馬車を乗り継いでの旅路である。
おおよそ急ぎの旅とは思えぬまったり感に、黒竜姫は呆気に取られてしまっていた。
「……人間の振りをしながら旅をすると?」
「うむ。私たちは、ここから金色の竜の元にたどり着くまでの間、魔族であるということを人間に覚られてはならん」
ヘレナから旅立つ際、黒竜姫は魔王から、今回の旅に課せられる『制約』を説明されていた。
「つまりそれは……空を飛んだり、転送魔法陣によって近道をすることもできないという事ですか?」
「当然、人間達の移動手段を主軸に考える事になるね」
人間達の移動手段。つまり徒歩か馬車である。
魔族世界ではワイバーンを使っての航空巡廻ルートまで整備され始めているというのに、人間世界では未だに地を這うのが精々なのだという。
これには黒竜姫も困惑した。
「陛下、急ぎの旅だというのに、そのような悠長なことを考えてよろしいのですか?」
「確かに悠長かもしれないが、だからと迂闊に航空ルートを活用して相手に感づかれても困る。あるいは、どこかの国に察知されても面倒だ。後々、妨害が入る可能性もあるからね」
「私がいる限り、人間の軍勢など何の妨害にもなり得ませんわ」
自信満々だと言わんばかりに胸を張る。自分がいるのだから、そんな心配は無用なのだと。
だが、そんな黒竜姫を前に、魔王は苦笑していた。
「だが、何らかのルートで教団の耳にそれが入るかもしれない。ぱそこんが軍事的に活用されはじめて久しい。情報は即座に各国に流れると思っていい」
「……ぱそこんが何なのかは、私にはよく分かりませんわ」
嫌な単語が出てきたといった様子で、黒竜姫は頬を膨らませながらそっぽを向く。大人びた容姿に似合わず妙に子供っぽいしぐさで、魔王にはそれがかわいらしいとすら感じられた。
「とにかく、わずかでも成功させる為には、悪戯に相手を刺激するような真似は極力避けたいんだ。分かって欲しい」
「……まあ、陛下がそこまで仰るのでしたら」
小さくため息を吐きながら、それでも愛する魔王の言うことだからと、黒竜姫は不承不承にそれを受け入れたのだ。
そして今、二人が何をしているのかというと、木陰で三時間ほど休憩を取っていた。
人間と違い強靭な肉体を持つ上級魔族二人が、である。
いかに陽射しが強かろうとその道程が長かろうと、さほどの消耗にもならないだろうに、魔王は突然歩を止め「ここらで一休みしよう」とか言い出したのだ。
確かに休むには何かと都合のいい場所だった。
二人が腰掛けている巨木の下は丁度いい感じに夏の陽射しを避けられる。
こうして座っていればさわやかな風が緑の香りを運んできてくれて、心持ちリラックスできる気もする。
街道からは外れていないので、通りを見ながら休んでいれば、その内乗り合いの馬車が通り過ぎるかもしれない。
そう考えれば、こうして休むことそのものは決して無意味ではないのは黒竜姫も分かってはいるのだが。
「……はぁ」
それでも、三時間ずっと眠りっぱなしというのは、流石にないんじゃないかと思うのだ。
何せ休憩に入ってからずっとである。
もう少し自分を構ってくれればいいのに、という感情と、どうしてそんなにゆったりできるの? という疑問のない交ぜで、黒竜姫はどうしたらいいか分からなくなっていた。
だから、ずっと見ていたのだ。魔王の顔を。
以前の問題児・黒竜姫なら苛立ちのあまり暴走するか、魔王が起きないのをいいことに何かしでかす所だが、今ここにいる彼女は到底そんなことはできない乙女であった。
「むぅ……」
あまり夢の内容がよくないのか、魔王は時々うめき声をあげたり、苦しげに寝返りを打ったりしている。
夢とは記憶のデフラグ。過去と現在のない交ぜ。
よくない夢を見るというのは、それは即ち、そういった過去が魔王本人にあるか、あるいは現在おきている状況が芳しくないという事。
魔族はその長い人生を生きるにつれ、膨大な記憶の数々を頭のどこかへと追いやってしまう。
完全に消える訳ではないそれらではあるが、どうしても隅に追いやられて簡単に取り出せないような記憶が増えてくる。
例えば幼少時の記憶を。例えば思い出したくないほどに辛い記憶を。
日常生きていく上でさほど大切でもないそれらは、いそぎ覚える必要のある日々の記憶に追いやられていく。
魔王や黒竜姫のように、生きる上での睡眠を取る必要の無い一部の魔族にとっても、睡眠とはこの『追いやられた記憶』を整理し、日ごろあまり表に出さない、過去に起きた事を明確に思い出せる大切な行為である。
嫌な夢を見るほどの過去が、この魔王にあったのだ。
そして、睡眠をとる必要があるということは、その嫌なことか、あるいはそれに関連した何かを、魔王が思い出そうとしているのだろうと、黒竜姫は考える。
だから、それ自体をとがめるつもりは無かった。
何より彼女自身、夢を見ることによってあまり思い出したくなかった自分と母親との日々を思い出したのだから。
過去の自分と少し前までの自分との人格の統合には相当に苦労したが、これもなんとなしにいい方向に向かっているのではと黒竜姫自身も考えていた。
生きる為の睡眠は要らないが、睡眠そのものは有意な物なのだ。
だからこそ、今、魔王が何を以ってそこまで眠るのか、黒竜姫はそれを見定めようとしていた。
「……む」
ようやく魔王が眼を覚ましたのはいつ頃か。
黒竜姫は何をするでもなく、やはりじーっと魔王の様子を伺っていた。
「お起きになられましたか?」
魔王が目を覚ましたのがうれしいのか、黒竜姫は小さく微笑む。
「やあ、すまない、今何時かな……」
懐から懐中時計を取り出し、時刻の確認。三時を少し回っていた。
「もうこんな時間か……いかんなあ、ちょっと一休みのつもりが」
魔王としても想定外だったのか、照れくさそうに頭をぽりぽりと掻きながら笑った。
「あんまり眠っているようなら、叩き起こしてくれてもよかったんだが」
「いえ、陛下のお顔を眺めているだけで時が過ぎましたので……」
「そうかね?」
こんな顔の何が楽しいのか、と、不思議そうに顔をかしげる魔王。
「まあ、嫌な夢ではあったが。これも大切な思い出か」
「やはり悪夢だったのですか?」
「うむ、まあ、ね。あまり良い記憶ではないね」
苦笑いしながら、長剣を取り立ち上がる。
黒竜姫もあわせて立ち、さほど汚れてもいないスカートの後ろ部分を軽く払った。
「さて、陽射しも弱まったみたいだしそろそろいくか。明日の昼までにはカロリに辿り付くだろう」
「そうですわね」
この辺りの地図を思い浮かべながら、魔王と黒竜姫は牛歩の旅を急いだ。