#7-5.追憶『異世界への旅路』
「……女神よ、もう一つだけ教えて欲しい」
やがて、魔王は頬を引き締め、再び女神に問うた。
「なぁに? 何でも聞いていいわよ? 答えてあげる」
頼られるのがたまらなく嬉しいのか。女神は金色の瞳を爛々と輝かせ宙に浮かぶ。
「奴の魂は……別の世界に転生する事もありえるのか?」
それは、彼の心に初めて湧いた『執着』という概念だった。
勇者に対しての強すぎる拘り。
ただそれだけを追い求める彼の、異常なまでの執念であった。
「……魔王様、そこまであの勇者を――」
ヴァルキリーも驚きを隠せないのか、目を見開いていた。
「転生するわよ。ただしそれがどこの世界であるかは言わないでおく。知った所で、貴方には誰がそれなのかを知る術が存在しないから。それから、曲がりなりにも他の魔王が居るであろう他所の世界で、貴方みたいな強すぎる力を持った魔王が暴れまわったりしたら、それこそ困った事になるから」
16世界が壊れちゃうかも、と、少し困ったような顔で説明を続ける女神であった。
「貴方は強すぎる力を自分で制御できていないわ。ただ他者を葬る事にしか使えないでいる。だから、知らず知らずのうちに人類を滅亡させてしまったりする。今回この世界で起きた悲劇は、魔王たる貴方がわずかでも躊躇し、物事を正しく考えられれば、どこかで歯止めが利かせられたはずなの」
案外簡単に避けられた悲劇なんですよ? と、人指し指を立てながら魔王の周りをふよふよと浮いて回る。
「全世界の魔王を管理・管轄する知識の女神として貴方に助言するわ。貴方は、もう少し知恵と他者への配慮を身に着ける必要があります。それが叶わずに彼の勇者と再会できたとしても、貴方はきっと、同じ過ちを繰り返す事になるでしょう」
「……知識と、配慮?」
「今の貴方には大よそ縁のない、想像の難しい事柄かもしれません。だけどとても大事なもの。ただ強いだけの貴方に、幸せは絶対に訪れない。世の中はそんなに都合よく出来ていないもの。周りを良く見られない者に、幸せなど訪れないわ」
幸せって、案外側に転がってるものなんですよ? と、今度はヴァルキリーの周りをうろちょろする。ヴァルキリーは心底鬱陶しそうにそれを眺めていた。
「ドルアーガ。異世界へと旅をしたいなら助力してあげましょう。とても美しくてキュートな女神様が貴方をサポートしてあげますよ?」
「……要らん」
今ならお得ですよ? などとのたまいながら、女神はニヨニヨと笑っていた。それが魔王には気に喰わない。
「だが、奴が他の世界に居るというのなら、私は奴を追わねばなるまい。そうでなければ、私の存在は嘘になってしまう」
それは、魔王の心の内に生まれた、ただ一つの存在意義であった。彼と戦いたい。戦うために、自分は生きて居るのだ、と。
「そう」
助力の件は一笑に付したが、女神は機嫌を損ねるでもなく、満足げに微笑んでいた。
そうして、異世界への旅を決めた魔王ドルアーガは、自らの世界『在る世界』の統治を配下であるアスタレートとヴァルキリーに委ねる事にした。
どうせこんな力持っていても仕方ないと、力の半分ほどを二人の部下に分け与えようとしていたのだが、ヴァルキリーはこれを拒絶し失踪してしまった。
結局半分をそのまま、アスタレートへとくれてやった。
忠義者に対する、魔王なりの礼のつもりも含まれていた。
当初、魔王が異世界へと旅立つ事を知り、アスタレートは必死になって引きとめようとしていた。
『我らが崇めるはドルアーガ様ただお一人なのです』
足にすがりつき涙ながらに語るこの老魔族に、魔王はわずかながら心が癒されるのを感じていた。
そして、感慨深くもなっていた。
『こんな私でも、必要としてくれる者はいたんだな』と。自然、頬が緩んでいた。
結局、説得は無駄だとわかるや、後の憂いは気にせずに、と、心強い笑顔で見送ってくれた。
残る忠義者であるはずのヴァルキリーはというと、結局魔族達が魔王を見送る際にも姿を現さずにいた。
『在る世界』に居る間、最も忠実に彼に尽くしていたはずの忠臣は、しかし、その世界に居る間、魔王の前に現れる事はついぞなかったのだ。
「……何故ここにお前が」
そうして、ドルアーガが次に彼女の姿を見たのは、転移した先の世界だった。
転移した目の前に立っていた。
これには彼も驚き、思わず問いたださずには居られなかった。
「魔王様。私は天より堕とされて以来、ずっと貴方様に忠義を誓っていたはずですわ。それを今更離れよとはご無体ではありませんか?」
「……長い旅になる。死ぬ事になるかもしれん。二度と、元の世界には戻れんかもしれんぞ?」
「構いません。その時に貴方様のお傍にいられるのなら、それで構いませんわ」
なんともいじましい忠誠心であった。
むずがゆいものを感じながら、それでも、それを嬉しく感じたのか。
魔王は頬をポリポリと掻きながら、それ以上は厳しい視線を向けず、一人、歩き出した。
「勝手にしろ。だが、私はもう魔王ではない。『ドルアーガ』の名も、奴と再会するまでは封じるつもりだ」
「ではなんとお呼びすれば?」
「そうだな……」
そう言いはしたが、良い呼び方がない。そもそも、彼にはそんなに大した知恵はなかった。
彼が持っているのは、気まぐれに顔を見に来た女神により授けられたわずかな知識のみであった。
だから、自分の持っている名前と、魔王という立場以外の事をほとんど知らない。
考えが上手くいかないと、足が止まってしまう。
どうしたらいいのか、と、ふらふらと周りを見渡す。
『この先アルド伯爵領検問有』
粗末な木の道案内に目が留まる。
「……ヴァルキリーよ、『伯爵』とは何だ?」
「人間や魔族に見られる貴族の地位ですわ。貴族と言うのは、その種族において高貴な、他者の手本となる事の出来る知性や能力を兼ね備えた上位的存在と言えます」
「ふぅん……」
良く解らない単語ばかりが連なっていたが、なんとなく上等な存在であるらしいというのと、『知性や能力を兼ね備えている』という件が彼の興味を惹いていた。
「よし、私の事は『伯爵』と呼べ」
「はぁ……伯爵様、でよろしいのですね?」
「うむ、それでいい」
満足げに笑う自称伯爵。早くもその響きが気に入ったらしかった。
あまり腑に落ちない様子の堕天使は、それでも主の求めに応じる事にした。
彼女にとって、主の言葉は絶対だったからである。
「よし、気分も一新した。当て所もない旅だ。楽しくいきたいものだな」
「そうですわね」
漆黒の外套に身を包むその様は、なるほど、確かに旅の貴族らしさもあるかもしれない、と、ヴァルキリーは言葉に出さず心の中で呟く。
一方で、自分の身なりを鑑みて、そう在ろうとする主に対し、自分があまり適していないものだと客観視もしていた。
「……ふぅ」
なので、衣装と身体の一部を変更した。
「ほう、翼を隠したのか、だがその格好は……」
「ええ、先ほどの組み合わせでは、あまりにも目立ちますので」
「随分と、印象が変わるものだな」
ひらひらとした紺色のエプロンドレスに身を包み、装いも大よそ戦堕天使と思えぬ若々しさであった。
顔つきも美女のそれから瑞々しい美少女のそれへと変わり、胸などのサイズもささやかなものになっている。
まさに全てが変更されていた。
「旅をするにあたって、今までのように魔王とその配下であるという事を誇示する必要もなくなりましたので……伯爵様が『貴族』を標榜しての旅をするというのならば、私はその貴族に仕える『侍女』としてお傍に控えますわ」
例によって澄ました顔のまま、ヴァルキリーはふわりと風に浮かぶ長いストレートの金髪をそっと手で押さえる。
「不束者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします、伯爵様」
「うむ……では、行こうか」
新たな世界は、風がとても心地よい、明るい世界だった。
小鳥が可愛らしく歌を奏で、小さな獣が蝶々を追い飛び跳ねる。
耳を済ませば小川がせせらぎ、世界が平和であると錯覚させる。
空に浮く無数の島々は、モノを知らぬ魔王に冒険心を抱かせた。
新しい世界は、何も知らぬ二人になんともいえぬ新鮮さを感じさせたのだ。
それが、二人の旅の最初の思い出であった。




