#7-3.追憶『哀』
こうして、魔王ドルアーガによる、叛乱魔族狩りが始まった。
城に詰め掛けていた叛乱魔族は瀕死のはずの魔王によって一瞬にして蹴散らされた。
リーゼヴェヴァルドは戦慄し、自城に戻り防備を固め、大軍による波状攻撃で消耗戦を仕掛けた。
今ならば倒せると思い、必勝の想いで掲げた旗は、その想いも虚しく、わずか二十年ほどで蹂躙され尽くした。
魔族がどれほど団結しようと、リーゼヴェヴァルドがどれほど強かろうと、魔王がどれほど疲弊しようと、そんなものはハンデにすらならなかったのだ。
何故なら、魔王ドルアーガは、絶対に負けない存在だからである。詩人の泉により、それを保障されているからであった。
16世界公認の反則能力である。誰も彼もがドルアーガには勝てない。勝つことを許されない。
故に、生きたいのならば全ては彼の前に這い蹲るしかない。抗うものは敵であり、勝利の前に仇名す敗北者と決まっていた。
無数の魔族の死体の山を築きながら、しかし魔王は笑いもせず、ただただ虐殺を繰り返していた。
9割の魔族が絶滅した後、残されたわずかな忠義者の魔族のみが彼を引き続き崇めていた。
ヴァルキリーと、文官故に荒事に手を染める余裕のないアスタレートという老魔族を筆頭に、その数わずか五百名。
大半はヴァルキリーの部下である堕天使族と、アスタレート配下の悪魔族である。主要魔族の大半は魔王を裏切り、魔王に恩義を感じていたごく少数の種族のみが生き残った形となった。
ここにきて、ようやく魔王は傷を癒し、力を高める事に専念し始める。
より強くなっているであろうあの勇者を相手にする為に。より長く、少しでも沢山の技を受け、これを迎撃して、戦いを楽しめるように。
魔王は全てをそこに注いだ。ただでさえ強い魔王は、十年ほどかけてより手の付けられない存在へと昇華していったが、そんな事魔王本人は気にもせず。
万全を期して、万端に整えて、魔王は勇者の元へと向かった。
あの約束を果たす為に。今度こそ誰にも邪魔されず、最高の戦いをする為に。
魔王はこの三十年間、唯一つ、それだけを考えていたのだ。
そんなだから、彼は想定だにしていなかった。見落としていた。
人間は、若者であっても三十年も経てば年老いて、まともに動けなくなるのだ、と。
「……お前が、あの時私と戦った勇者だというのか?」
「げほっ……ごほっ……うぅっ……」
小さな廃村の一軒家。装いも農家のそれと大差ない造りのそれは、とても勇者の屋敷とは思えぬ粗末なモノであった。
部下のヴァルキリーに探させ見つけた勇者の家に、意気揚々と入った魔王はしかし、奥のベッドで独り横になっていた年寄りを見て、最初ソレがあの勇者だったとは気付けなかった。
ヴァルキリーに言われ、初めて知ったのだ。人間は、事のほか早く歳をとるのだと。
そして、とても早くに寿命を迎えてしまうのだと。
「なんだその細い腕は。そんな腕で剣が握れるのか? 皺まみれの顔はなんだ。私を睨んだあの鋭さはどこへやった。何をむせている? お前なら、病程度魔法か何かで治せるだろう? すぐ立ち上がれ。その変身魔法を解いて私の前に立って見せろ。あの時の約束を果たせ」
魔王の存在に気付けてか、老人も魔王を見はする。だが、それだけで一向にベッドから身を起こす様子もなく、ただただむせているばかりであった。
「魔王様。人は老いるのです……魔王様がどれほど求めようと、コレはもう、立ち上がることすら困難でしょう」
「だからどうした。お前にそんな事は聞いていない。勇者よ、私は戦いにきたのだぞ? お前の為に必死になって技を磨いた。今の私は、きっとあの時の私よりずっと強いに違いない。それというのも、お前が強くなると見越したからだ。それがなんで――」
ヴァルキリーの言葉など意にも介さない。肩を震わせ、魔王は老人に詰め寄る。
「私をバカにしているのか? 何故お前は老いてしまった?」
途切れる事無く続く疑問の数々。魔王は困惑していた。こんな事があってたまるかと、現実を拒絶していた。
だからか。そんな魔王を見て、ようやく落ち着いたのか、老人は呟いたのだ。
「……うるせぇ、よ。てめぇの都合なんて、知るかってんだ……」
息も絶え絶え。喋るのもやっとの様子であった。
「待ってろ……今すぐ、殺してやる……魔王め、殺してやるからな。俺は勇者だ。俺は、お前を……」
荒らむ息に肩を揺らしながら、ゆったりと、ぐったりとなんとか身を起こす。
ベッドから立ち上がろうと縁に手をかける。だが、力が入らないのか、そこから先が動けない。
肩に力を入れる。腕のない方の肩がびくりと震え、体勢が崩れた。
「あっ」
そのまま、力なく床の上に転げ落ちてしまう。
「う……あぅ……」
口元からよだれをたらしながら、苦痛に皺くちゃの顔を歪めながら。
勇者は、魔王に一撃を加えんとしていた。
「……もういい」
魔王は、見ていられなくなっていた。
「殺して……やる」
「もういいんだ」
背を向け、勇者の言葉を遮る。
「約束……なんかじゃねぇ。俺は、お前を殺してやらなきゃ、いけないんだ――」
「やめろ」
「お前を殺して――皆に、『魔王を殺した』って言わなきゃ……言わなきゃ、なんねぇ」
「……もうやめてくれ。そんなお前を見たくない。見せないでくれ」
「手前の勝手で苦しむような腑抜けが……人を滅ぼすんじゃねぇ!!」
それは、勇者にとって、そしてその世界の人類にとって最後の一撃であった。
ベッドの下に転がっていた果物ナイフを投げつけただけの物。
しかも刺さる事無くナイフは魔王の足に当たり、そのまま転がり落ちてしまった。
力なく倒れる勇者。魔王は、もう限界だった。
頬に流れる何かを感じながら。自分の浅はかさを呪いながら。
一時は互角と言えるほどに脅威だった人間の勇者は、魔王の一撃の下、無残に水音を立て潰れた。
「……魔王様」
お供のヴァルキリーが心配そうに魔王を見上げる。
誰一人居なくなった廃村。
勇者は死に、魔王が生き残った。
戦いの顛末は同じはずだろうに、実際には戦いにすらなっていなかった。魔王は、それが虚しく感じられてならない。
ぽつり、ぽつりと雨が降り始める。
魔王は意に介さない。濡れるがまま、じっと、勇者が居た小屋のような家を眺めていた。
「この三十年間、なんとも楽しく、充実した日々であった――」
雨音が増す中、魔王は語りだす。
「『奴ならばこの位の攻撃はかわすはず』『これ位の威力では防がれるに違いない』。勝手に、色々想像し、妄想し、『その時』のことを考えていたのだ……今まで生きていて、最も楽しい三十年であった」
そして、小さく笑っていた。口元をゆがめて。頬を痙攣させながら。
「……私は、折角手に入れた目標を失ってしまった」
「何故なんだろうな」
「人は哀しい時、涙を流すのだと女神は教えてくれた。悲しそうな顔をして、泣いてしまうのだという。これが哀しみというのなら、私の心が悲しいと思っているのなら……何故私は、笑うことしかできないのだろうか?」
雨は、魔王の頬を打っていた。
口元は引きつり、なんとも痛々しい魔王の笑顔だけが、そこにあったのだ。
「……魔王様、それが魔王様の哀しみなのです。貴方様は今、心の底から悲しんでいらっしゃる。それが魔王様にとって『哀しみ』を表現するお顔なのでしょう」
足下に跪くヴァルキリーは、やはり目を閉じ、澄ましたままであった。
主同様、彼女も、感情を表に出す為の機能が存在していないらしかった。