#7-1.追憶『喜』
そこは、薄暗い世界であった。
後ろ暗さと粘り気のある強い湿気。
人の欲望がない交ぜにされた虚ろな世界。
彼の者は一人、そこに君臨していた。
足下には死体。彼に歯向かった愚かな人間の王の成れの果てである。
魔王軍を前に、必死の想いで抵抗を続けていた人間の国家が一つ。それが先ほど滅びた。
理由は単純である。彼が、その国を『敵』だと認識したからだ。
特に感傷もない。ただ生きたいが為必死になって、ない知恵と力を合わせていただけの国家であった。
そんなものを潰すのに感情など持たない。そもそもの所、彼には感情と言えるものが希薄であった。
「つまらん」
ただ、呟いただけの言葉であった。敵を殲滅する。ただそれだけの目的を果たしたというのに、彼の目には何の昂ぶりもない。
「何故こんな簡単に滅びるのだ」
国一つ。無数の人が集まっていたというのに。自分に向かってきた敵の数は百万や二百万では足りないというのに。
そんなもの、彼には一にも満たない蟻の群れであった。
蟻を踏み潰す事は、彼にとって感情の動く事柄ではなかった。
蟻が必死に噛み付いても、彼には何の苛立ちも感じられなかった。
蟻がひくひくと痙攣し汚らしい汁を垂らしながら絶命してるのを見ても、彼は吐き気すら催さなかった。
だが、別に蟻のような人間を殺すことを、虐殺する事を、滅ぼす事を、楽しんでいる訳でもなかった。
「なあヴァルキリーよ」
だから、彼は問うのだ。
「私は、何の為に生きてるんだろうなあ」
虚ろな目で。ただ、何も考えられずに。
目を伏せ足下に控える堕天使に、彼は自分の生の意味を問うたのだ。
「……それは」
堕天使は言葉に淀む。答えられるはずもない。解らないのだ。
「生物は、生まれる事によって、何がしかの意味を背負うのだとあの女神は言っていた。だとしたら、私には何の意味があるのだ。ただ生きて、殺す位しかする事がないというのに」
高低無くただ放たれる言葉は、どこか皮肉じみていて、それでいて、何の答えも求めていないらしかった。
彼はまた、自らが築いた死体の山を眺めながら言うのだ。
「私は、何の為に人を殺してるんだろうなあ」
世界が変わる。そこは古城。歴史が刻まれたひび割れた石柱が支える玉座の間。
「貴様が魔王か」
「そうらしいな」
ギラリと鈍く光る長剣を手に、若者は『魔王』と対峙していた。
珍しく訪れた珍客であった。仲間と共に配下の魔族共を蹴散らし、この城までやってきたのだという人間の勇者が一人。
他の仲間とは死に別れたのか。それとも未だ生き延び彼の為時を稼いでいるのか。
いずれにせよ、部下の誰もが、あのすさまじい強さを誇るヴァルキリーまでもが不在となり、玉座はこの二人だけの世界となっていた。
「何故アルハンナを滅ぼした? 彼の国は、その日その時を生き延びんが為、自国民を守るのに必死だっただけだというのに」
勇者の言葉に、魔王は首を傾げる。
少しして、『アルハンナ』という単語が、先日滅ぼした国の事であると気付き、「ああ」と、さほど感情もなく声に出す。
「あの国か。私の敵だったのだろう? だから滅ぼしただけだ。そんなに深い意味はない。敵は殺す。滅ぼす。ただそれだけだ」
「……それだけ、だと?」
「ああ、私の敵になったなら、今生きている者も既に死んでいる者も、全ては優先順位が違うだけで、いずれは等しく死ぬだけだ。さほどの違いもない。さほどの意味もない。それはいつか訪れる」
あろうことか。魔王は、まさしくそんな理由で殺戮を繰り返していた。
彼にとって大切なのは生の意味ではなく、その生によって何が成されたかではなく、ただただ、それが自分の敵か味方か、たったそれだけだったのだ。
呆れるほどの短絡思考。ずる賢い魔族の王とは思えぬほどの考えなし。
こんな奴に国は滅ぼされたのかと、勇者は空いた口が塞がらなかった。
「たったそれだけの為に、何の罪もない民が、剣すら握った事のない少女が、この世の何事も知らない幼子が、殺されたというのか!?」
「そうだ。人が死ぬ理由など、その程度で十分だろう。私は、私の敵になった者を殺す。生きたければ敵にならなければいいだけの話だ。だが、人間はどうやら、私の敵になる事を選んだらしいからな、殺すことにしたんだ」
ただ淡々と、魔王は勇者の激昂に答える。
無慈悲だとか外道だとか鬼畜だとかの話ではなく、単純に、他人の死について何も感じられない程度に、彼には心が備わっていなかった。
「もういい。お前と問答などしようとした俺がバカだった」
「そうか。人間と話をするのは久しぶりだから、なんとなく乗ってやったが……どうやらお前は私の敵らしい」
剣先を鋭く魔王に向ける勇者に、長身の魔王は表情すら変えず、最後の言葉を呟く。
「敵ならば、殺さないとな」
「はぁっ――はぁっ――」
勇者は、魔王と死闘を繰り広げていた。
圧倒的な実力を誇る魔王。まさしく世界最強、全ての魔族を統べるだけあって、その力は圧倒的であった。
軽く動いて見せただけで空間転移まがいの速度。
腕を振りかぶり殴る素振りをしそれが空ぶっても風圧で玉座の大半が消し飛んだ。
魔法弾のようなものを投げつけてくればそれは全力で回避しなければ即死するのが解るほどで、着弾地点に発生した謎の黒い渦に巨大な柱が吸い込まれ圧壊されていくのを見て、勇者は大層背筋を冷やした。
勇者も必死になって攻撃を繰り出す。地形を空間ごと破壊する斬撃、追撃には無数の属性を束ねた融合破壊魔法。
その一撃一撃もまさに必殺の威力、切れ味を誇る超一流の技で、なるほど、彼がここまで辿り着けたのも頷けるほどであった。
魔法は威力こそ魔王の魔法弾まがいのものに劣るものの、それを上手く相殺しながら魔王の予測回避を潰して行く。
虎の子の時の魔法まで駆使し、文字通りの瞬間移動によって魔王の首を刎ねようともした。
だというのに魔王は顔色一つ変えず、息一つ乱さず攻撃してくる。
魔法が直撃しようとも、斬撃で急所であろう場所を斬りつけようとも、彼はバランス一つ崩さず次の行動に移るのだ。
時の魔法が発動しても何故かそれが通用せず、止めた時の中をも魔王は動いて見せた。
純粋な暴力、いや、暴力と呼ぶのも違和感を感じるほどに圧倒的な何かであった。
まさに嵐。豪雨と豪風を交互に浴びせかけられるような攻撃の数々に、勇者はまともに息をするのも忘れ、ひたすら終わりの目の見えない戦いを強いられていた。
「……すごいな」
五分経ったか、それとも一時間経ったか。
時の流れすら曖昧になるほどの応酬の末、突然魔王がぴたりと攻撃をやめた。
「……なんだ?」
その瞬間、確実に、その空間の時の流れは遅くなっていた。
ようやくにして乱れた呼吸を整える勇者。魔王は……呼吸一つ取っても平時と大差なかった。
「そうか、これが『驚き』っていうのか。初めてだ、こんなに長く私と戦えた相手は」
感情すら感じさせなかった魔王が、口元をかすかに歪めているのが見え、勇者は苛立った。
「ふざけやがって」
命に代えても魔王を倒す――そう誓って仲間と共に命がけでここまで来た彼にとって、この魔王は、なんとも気持ちの悪い、得体の知れない相手であった。
ただ、魔王のその反応の薄さ、戦闘中だというのに手を止めた不可解さ、そして何より、自分達のしている殺し合いに何の感情も向けていないらしいその態度に、勇者は腹を立てたのだ。
「ふざけてなどいない」
だが、魔王は不思議そうに首を傾げながら、それを否定する。
「初めてなんだ、こんなに長く戦えたのは。私はきっと、ずっと何かを求めていたんだな」
「おためごかしを。気持ち悪い笑い顔しやがって。イラつかせる野郎だな貴様は!!」
魔王の言葉に我慢しきれなくなり、勇者は飛び掛る。
むろんの事魔王も応戦する。だが、顔はにやついたままだった。
「……笑っているのか? 私は」
「さっきからニヤニヤと笑いやがって!! お前みたいなのがいるから俺達は安心して眠れやしねぇ!!」
点から線へ。必殺の一撃の連続の後、フェイントをかけ全力を籠めて一撃を狙っていく。
決まった。見事に急所を抉り、腹に風穴を開けてやった。余波を受け、魔王の四肢は血管がはじけとび鮮血が噴水となる。
だが、魔王は笑ったままだった。即死しないにせよ満身創痍に違いないその負傷が、まるで何でもない事であるかのように。
そして力のこもった掌底を正面に突き出し、勇者の腹に一撃を加えるのだ。
「ヴグッ――ぁ――っ」
それは、勇者が初めてまともに受けた一撃だった。
血を吐き、激痛に呻くも、倒れる事はせず、まだまだとばかりに剣を構える。
「すごいな。そうか、私は楽しいんだきっと。私と戦いになる者が、ようやく私の前に現れてくれた」
魔王の口元は更に歪む。にやけ顔を通り越して笑顔であった。魔王は、それを楽しんでいたのだ。
「私は……ずっとお前みたいな者が現れてくれるのを望んでいたに違いない。そうか、ようやくそれが叶ったのか。これが『嬉しい』という感情か。なんとも心温まる、心が躍るモノではないか――!!」
死に体のような身体のまま、魔王は突如湧いて出た未知の感覚に身も心も震わせていた。
「ありがとう人間の勇者よ、初めてだ。生きていて、こんなに生きている意味を感じられたのは初めてだ!!」
その『生の実感』に打ち震えながら、魔王は戦い続ける。こんなに楽しい殺し合いは初めてだとばかりに。
戦いが始まるまで無感情だった魔王は今、勇者が驚くほどに、興奮気味に子供笑いしていた。
「なら満足して死ねよ!!」
再び構え、一撃を繰り出す勇者。
「ははは、なら殺してみろ勇者よ。ああ楽しい、楽しいぞ!! もっと暴れよう!! 幾日でも殺し合おう!! 互いに互いの技を、力を、命の全てをすり減らしながら刹那の時を刻もうじゃないか!!」
魔王は高らかに笑いながら、まるで遊んでもらっている小さな子供のように全力ではしゃいでいた。