#3-2.記憶の中の母3
「さて、本題に入ろうか。黒竜姫、君はアプリコットに行ったね? 私の命令を無視して」
ズズ、とティーカップに唇をつけながら、魔王は静かに言葉を紡ぐ。
慎重に、できるだけ彼女を刺激しないよう、言葉を選びながら。
「……お察しの通りですわ」
黒竜姫はというと、魔王の指摘に驚く様子もなく、視線を落としていた。
「来るべきアプリコット攻略の際に……どうしても、見過ごせない人間の勇者が居りましたの。不可解な強さを持っていて、放置するのは危険だと判断して、私は――」
「勇者エリーシャか。それで、会えたのかね? その、彼女に」
責められていると感じたのか、普段と異なって小声になる黒竜姫。
魔王はそんなつもりもなく、できるだけ彼女の心を抉らないように細心の注意を払っていた。
「いえ……会う事は出来ず、それでいて、エリーシャよりも強い侍女に遭遇して……一方的に痛めつけられましたわ」
どうやら彼女はラズベリィと遭遇してしまったらしかった。
ただの偶然なのかラズベリィが狙ってそれをやったのかは別として、奇妙なめぐり合わせだなあ、と、魔王は額に手を当てる。
「それで、そのまま帰ってきたのか。あまりにも強すぎるその侍女に敗れ、落ち込んでいたと……」
いささか予想とは違っていたものの、それならば仕方ないと魔王は割り切ることにした。今は彼女の心のケアが必要だから、と。
だが、これに対しては黒竜姫は頷かず、首を横に振った。
「いいえ。その女は倒したのです。その……色々と、無茶苦茶な手段で、なんとか――」
そして、その口から語られた言葉は、魔王の予想の遥か斜め上を行っていた。
「……倒したのか!?」
「きゃっ――」
あまりのことについ立ち上がり叫んでしまう。
黒竜姫は反射的にびくりと震え、小さく背を丸める。
「あ、すまない……」
妙に可愛らしくなったものだな、と違和感を感じながらも、魔王はまた座りなおす。
若干零れてしまった紅茶を懐から出したハンカチーフで拭きながら、また黒竜姫の顔を見つめる。
「いや、そうか……死んだのか。その、侍女は……」
「ええ、体内に直接猛毒のトキシックブレスを注ぎ込みましたから……」
驚愕の事実である。16世界で二番目に強い『魔王』が、こんな辺境の若い娘相手に殺されるなど。
確かにこの世界の生物は他と比べ規格外に強い者が多いようだが、それにしても、解らないものである。
「時の魔法という、非常に珍しい魔法を駆使した強敵でしたが、身動きを封じてしまえばただの女ですので……」
「……時の魔法、なあ」
ラズベリィこと『魔王』レーズンは、全世界的に見ても稀少な時の魔法の遣い手である。
時間を止めて自分だけ行動したり、相手の時を止めて一人時間軸に取り残させたり、世界間の時空をゆがめてワープまがいの超長距離瞬間移動をすることも出来る。
その気になれば指定した空間の時間を加速させる事も可能で、それは言ってみれば『直接手を下さずとも任意の相手を老い滅ぼす事が可能』という反則級の遥か向こう側を行く化け物であった。
当然、今の黒竜姫などでは足下にも及ばない存在のはずである。
ただし、一つだけ、彼女には非常に致命的な欠点があった。
ものすごくうっかり屋さんなのだ。
普段は冷静だし永く生きただけあって相応に賢いのだが、ダメな時はどこまでもドツボに嵌ってしまうらしい。
そしてそれは、彼女が慢心した際に突如として表に出るのだ。
恐らく、レーズンは黒竜姫を一方的に痛めつけ、勝利を確信したのだろう。
当然といえば当然で、両者の間には赤子と巨象位の力の差があり、それが故に慢心したのだ。
そして、例によって油断しまくり、黒竜姫に反撃の機会をあたえてしまったのではないか。
魔王の考えた筋道はこんなもので、黒竜姫本人の談を聞き、恐らくそう間違ってはいないのではないかと確信できた。
同時に「そうは言ってもそれ位では彼女は死なないだろうなあ」とも考える。
別に何か根拠がある訳でもなく、「ああいうのは実際にその目で死体を確認するまでは死なないものだ」と思っていたのだ。
最も、こんな所で黒竜姫の話の腰を折るつもりもなく、魔王は黙ったままであったが。
「どちらかというと、問題はその後なのです」
話は続く。いよいよ本題に入った形だ。空気も自然、引き締まる。
「侍女を撃退した後か」
「はい……そこで私は、その侍女の主と遭遇しました」
ぎゅっと、クッションを強く抱きしめる。
「私の……母に似ている娘でした」
愛らしい唇から紡がれた言葉は、静かで、それでいて戸惑いを秘めていた。
「そうか」
間をおいて、魔王は一言、息を吐きながらに返す。
やはり、そうであったか、と。
「陛下。私は、迷ってしまったのです。解らなくなってしまいました。今まで私の知っていたはずの『魔王マジック・マスター』とは何者だったのかと。私は何故、自分の知る先代と……母と全く似ていない人間の娘を、自分の母だなどと思ってしまったのかと」
取り乱すわけでもなく、ただただ、どうしたらいいのか解らないような、そんな不安げな瞳を覗かせていた。
やはりというか、ラミアの指摘した通り、彼女は精神面で多大なショックを受けてしまっていたらしい。
「……君だけではない。恐らく、ほぼ全ての者が、彼女の『魔法』にかけられていたんだ」
だから、魔王はまず、その不安を取り除く事を優先した。自身の好奇心をひとまず端に放り投げて。
「魔法……?」
「そうだ。『クラムバウト』という古代魔法がある。知っているかね? 認識を操作し、術者に都合よく世界を変質させる魔法らしいんだが」
この世界の魔法に関しては、魔王よりは黒竜姫の方が詳しい可能性があった。
魔王にはよく解らない魔法でも、その道の天才たる彼女ならば、あるいは詳細に知っているかもしれないと思ったのだ。
「いいえ……古代魔法に関しては、私は、母から教わったものしか解りませんので……」
しかし、その期待は外れてしまう。
「そうか……とにかく、そういう魔法があるのだ。だから、私達が先代の姿を正確に把握できないのも無理はないと思うぞ?」
その魔法を知っていれば、発動の際どのようになるのかが想像も付きやすいだろうと魔王は考えたのだが、さすがにそんな都合よくは行かないらしかった。
結果、妥当な慰め方しか出来ない。
「クラムバウト……そんな魔法があったとして、母は一体、何故そのような魔法を使おうとしたのでしょう?」
「それに関しては私も解らん。だから、それに最も近い位置に居た君なら、それを思い出せるんじゃないかと、ずっと待っていたのだが」
「申し訳ございません。まだ、少し混乱していて……母と妹の事は思い出せたのですが、正直、記憶の統合が取れていない部分が多いのです」
黒竜姫の引き篭もりの理由は、どうにもこれが一番大きかったらしい。
「ずっと、ずっと考えていたのです。自分は何者なのか……何故、記憶を失っていたのか……これから、どうすればいいのかを」
「結論は出たかね?」
「出そうにありません……私一人では、到底想像だにしない『何か』が起きたのだとしか……」
相当に賢いはずの黒竜姫でこれなのだ。誰にだって、一人では解ろうはずもない。
「それに関しては、まだしばらくの間考えるしかあるまいな。私自身、色々と悩んだ。君は知らないだろうが、ラミアも悩んでいたよ。記憶に穴が開いていた事は認識していたらしいからな」
「ラミアが……そうですか」
自分だけがそうだったわけではないと知り、黒竜姫はわずかばかり、表情を和らげる。
どこか大人しさを感じさせるその面持ちは、黒竜姫というあだ名とは裏腹の、清楚さすら感じさせる美しさがあった。
恐らく、今の黒竜姫は魔王のよく知る、乱暴で口が悪い、暴虐そのもののような生き物ではないのだろう。
幼少の頃からの、大人しかったあの『アンナスリーズ』の記憶が蘇り、その口調、話し方から毒が抜けきっている。
彼女の性格の毒は、その大半がこの黒竜城で黒竜の姫として生きたことによって身についたものに相違なかった。環境が彼女を変えたのだ。
「君の母に似ているという女性……アップルランドの皇女タルトに相違ないね?」
「はい……後で侍女に調べさせましたが、恐らく間違いはないと……」
魔王は、ある程度の確信を持ってその質問をかけたが、やはりというか、その通りの返答が黒竜姫から告げられた。
「容姿から性格から、記憶の中の母とは明らかに異なる少女でした。だというのに私は……その皇女に、母を見てしまったのです」
少し伸びた黒髪を手でそっと分けながら、黒竜姫は説明する。
「そしてその時、ずっと忘れていた空白の記憶が蘇り……いろいろな事を思い出しました。魔王城で暮らしていた時の事。カルバーンという双子の妹が居たという事……そして、母より教わった魔法の数々を」
「君は、母親から魔法の手ほどきを受けていたのかね?」
「そうらしいです。私はずっと反発していましたが。あの人、最後には訳の解らない魔法まで覚えさせようとして……何がしたかったのやら」
母のことを語る黒竜姫はどこか辛そうで、あまり話したくない類の話だというのは魔王にもよく伝わった。
だが、その言葉の端に、魔王はひっかかるものを感じた。
「訳の解らない魔法、というのは?」
「ん……『コールドスリープ』という魔法ですわ。自らの命を代償に、対象になった相手を殺す魔法らしいのですが。母はこれを、カルバーン用の切り札として私に覚えさせたかったようで――」
酷い母ですよね、と、自嘲気味に笑う。とても痛々しかった。
「そんな魔法、使えるはずないのに。双子の妹を、何で私が殺さなくちゃいけないのか、意味が解らないです。妹は、ただ母に愛されたがってるだけなのに。悪戯ばかりする悪い子だけど、母がちゃんと愛してあげてれば――」
「愛してただろうさ。だから彼女は私に全てを託したのだ」
魔王は、聞いていられなくなった。彼女が、自分で自身の母を貶めるのを。
先代の真意が解るからこそ、黒竜姫は酷い誤解をしているのだと、今更解ったのだ。
「……母が、陛下に……?」
俯いていた黒竜姫は、魔王の言葉にはっと顔を上げる。
その瞳はやや潤んでいたが、構わず魔王を見つめていた。
「そうだとも。君達の母上は、私に後を託したのだ。君達姉妹が、まかり間違って殺しあわないように。自分の伝えたかった事を、伝え切れなかった事を後悔しながらね」
アリスから聞いた真実。それは、途方もない時間の流れの中生まれた、そんな彼女の願いであった。