#2-3.黒竜姫アンナスリーズ
そんな、回想。遠かりし日の記憶。だった。
「……ずっとずっと思い出せないままだったのに」
目が覚める。アンニュイな気持ちのまま横たわっていたベッドは、自然、涙で濡れていた。
ずっともやの掛かっていた記憶の中の母の顔。存在すらなかったことになっていた双子の妹の存在。
その全てが明らかになり、この上なくすっきりとしているはずなのに、彼女――黒竜姫――は、どうにも納得のいかない気分であった。
色々とおかしかったのだ。
どういう記憶違いか解らないものの、黒竜姫が自分で覚えていた母の姿かたちは、実際の母のそれと明らかに異なっている。
豊満なはずの胸は実際にはそれほどでもなかったし、背丈は少女時代の自分よりも遥かに低かった。
顔立ちは魔族の母親というより人間の少女そのものであったし、声もかなり若かった。
総じて幼さを感じさせる印象。本当に魔王城を埋め尽くす程の子供を産んだのかと疑問に感じるほど弱々しい外見であった。
ましてそれが、魔界を、いや世界を震撼させていた魔王『マジック・マスター』であったなどと、一体誰が思うのだろうか。
マジック・マスターという魔王は別にいて、彼女の母親は実際にはその后か妾なのではないか、いっそそうであってくれたほうが気が楽だと黒竜姫は思ってしまう。
しかし、現実は厳しいものであった。
今までずっと忘れられていた、違和感を感じ続けていた記憶が、その1ピースが収まるだけで意外なほどあっさりと元の形に戻っていく。
解けていった氷はやがて、黒竜姫にとってあまり思い出したくない事まで思い出させるのだ。
以前は嬉々として使った『アステロイド・レイン』もまたその一つであり、そして、結局は未修得のまま、記憶の片隅にしまいこまれたままだった『コールドスリープ』もその一つであった。
「……こんな魔法私に覚えさせて、一体どうしろってのよ」
レスターリームすら追い出して引きこもった自分の部屋。
本棚の一番奥にしまわれた赤く分厚い本を取り出し、ぱらぱらとめくっていく。
既に一度目を通したものの、概要からしてふざけきっていて、覚える気が起きなかったのだ。
ただ、母親が何故対カルバーン用としてこの魔法を選択したのかだけは解っていた。
自己犠牲魔法『コールドスリープ』。
その最たる特徴は、術者自身の全ての魔力を解放し、任意の相手をこの世界から排斥する事にある。
魔法の直撃を受けた相手はそれがたとえどれだけ強い力の持ち主であろうと、高い魔力耐性の持ち主であろうと、例外なくその世界から排除される。
つまり、力で劣る自分でも、格上の妹を確実に倒す事が出来る、という意味だと彼女は認識していた。
当然、魔族にとって生命線である魔力を瞬時に使い果たすというのは、即ち死を意味する。
『自己犠牲魔法』の名に相応しく、術者は使用と同時に即死するのだから、つまり彼女がこれを使う状況下では、妹カルバーンを殺し、かつ自分が死んでも構わないほどの『何か』が起きた時に限定されるのだと勝手に解釈する事にした。
こんな魔法が存在していて、今まで誰も使ったと聞かなかったのは、恐らくそんなもの使う意味が無いと多くの魔族が認識していたからに違いなかった。
他者を排斥する為に自分が死ぬのは、魔族的に最も効率が悪く、意味が薄いのだ。
何せ自己中心的な者が多い。愛だの情だのは極近しい者相手に限定されるし、それだって自己の欲より優先される事は少ない。
まして命を投げ出してまでどうにかしたいなど、それはもはや狂気の域である。尋常ではない。
そんな狂った魔法を自分に覚えさせようとしていた母親は、やはり頭がおかしかったのではないかと、黒竜姫は大きな溜息を吐いた。
黒竜姫は、記憶を取り戻してからの数日、ひたすらに葛藤を繰り返していた。
黒竜族の姫としての今までの自分と、それ以前の、アンナスリーズとして魔王城で過ごした自分とのせめぎ合いである。
どちらの自我が優先されるのか。そもそも自分は何者なのか。今後、ラミアや妹と発覚した娘達とはどう接すれば良いのか。
数百年分の記憶が一気に流れ込んでそれまで一時的に形成されていた偽の自我の上にのしかかってきたのだ。
混乱は長きに及び、一時は精神が破綻してしまいそうになっていた。
魔族の弱いメンタルでは、双方の記憶や自我を維持するのは困難を極める。
様々な矛盾が存在していた。
魔界最強を自負していた自分。だが実際はそれより遥かに強い妹がいて、あまつさえ本当の自分は記憶を失う直前まで自身をひ弱だと思い込んでいたのだ。
過剰な自信の所為で他者に高圧的に接していたが、本来の自分はそんなことができる娘だったのだろうか。
疑問が浮かぶほど、本来の自分はとても繊細で、神経質であった。
種族柄、ひたすら他者に嫌われているのもおかしな話である。
本来自分は、カルバーンと違い、妹達から慕われ、先代の家臣からもある程度信頼を置かれていたはずなのだから。
つまり、記憶を失い、新たな記憶を形成してからの自分と、それ以前の自分とでは、立ち位置から立ち振る舞い、人格面や行動原理その全てが異なっている事になる。
折衝させるのは非常に困難で、何より周囲にも混乱を生む事になってしまう。
どうしたらいいか解らなかった。ただ一人、じっと時が過ぎるのを待っていたかった。
だから、彼女は一人でこうして、部屋に引きこもっている。
「黒竜姫が引きこもった、と……?」
「はい、侍女のレスターリームすら追い出し、一人で自室に閉じこもりきりだとかで……おかげで、竜族の部隊が有効に活用できませんわ」
玉座の間にて。その報告がラミアより成されたのは、実際に黒竜姫が引きこもり始めてから実に半月も経った頃であった。
ラミアからの報告を受け、魔王は「そういえば最近城に来てないな」と思い出す。
別に魔王の中において黒竜姫の存在が軽いだとか、元々興味がないだとかそういう事ではなく、やるべき事を終えてこれから何をやろうかと、軽い気持ちで浮ついていたので、そちらに重きを置きすぎて存在を忘れかけていただけである。
いや、やはり魔王の中では黒竜姫の存在は軽い扱いであった。ぶっちゃけ空気よりはマシなくらいである。
こうしてラミアに報告されるまでその辺り気が付きもしなかったのだから、その興味の無さは彼女の努力がいかに報われていないか・意味を成していないかを察するに十分であろう。
「実際問題、何故引きこもってるのかの理由は解っているのかね?」
「さあ……何せ、レスターリーム達に聞いても言葉を濁すばかりですので……」
常に黒竜姫の傍に居る彼女達ですら答えられないなら、確かに誰にも解るはずが無い。
「それで、私に報告してくるという事は、何らか、私にリアクションを求めているのかね?」
確かに、軍事において竜族のまとまりが悪くなるのはあまり良い話ではない。
短期的ならともかく、今後数十年、数百年とひきこもられるようなら、四天王の入れ替えを行う必要も出てくるはずで、それは中々に重い話ではある。
……が、そんなものをこの魔王に報告してもどうにもならないのはラミアにも解っているはずで、つまりそれをわざわざ報告してくるという事は、ラミアが遠まわしに魔王を頼っている、という事ではないかと魔王は考えていた。
「お察しの通りで……陛下には、黒竜姫の『お見舞い』等をしていただけたらと……」
「……なんだ、そんな事か」
もっと面倒くさい事を勧められるのかと思っていた魔王は、正直拍子抜けしてしまった。
ラミアと黒竜姫は懇意の仲だと専らの噂で、実際魔王の妻にと黒竜姫を推してきたりもしていたので、もっと色々突っ込んだことを要求してくるのではと思ったのだ。
「行って頂けますか……? 陛下は、あの娘にあまり良い印象を抱いていないようですから、お願いするのも憚られたのですが……」
「構わんよそれ位なら。病に倒れた部下を見舞うのと大差ないだろう」
実際問題、黒竜姫は魔王の部下である。それも四天王ともなれば魔王直属とも言える存在のはずで、塔の妾候補の娘達とは訳が違う。
見舞う事そのものは決しておかしな事ではないはずなのだが、何故今更ラミアがそれを言いにくそうにしていたのかは魔王には解らなかった。
「ではお願いいたします。私からは花束と果物などを用意いたしますので、それをお持ちになってくださいまし」
長い身体をペコリと折り、ラミアは礼する。
「君は見舞わないのかね? というか、さっきの話からして、一度は行ったのだろう? 黒竜姫の所へ」
魔王は、自分ひとりにお願いして放り投げようとするラミアに違和感を覚えていた。
仮にも先代の娘である。友人としてもそれなりに付き合いがあるはずで、それを自分に押し付ける形にしようとするのは彼女らしくない、と思ったのだ。
「勿論、私も見舞おうとしましたが……凄惨と言いますか、壮絶と言いますか……部屋の中から絶叫やら何かを破壊する音やらが聞こえてきて、入るのを躊躇ってしまいました」
命の危機を感じたので結局やめましたわ、と、恐ろしい一言を付け加えてくれる。実に余計な一言であった。
「……元気は元気なのか。病に臥せって、とかではないんだな」
「恐らくは。メンタル面で何かがあったのではないかと。何かの拍子に、昔の記憶を取り戻した可能性もありますわ」
あまり安心できる状況でもないらしく、ラミアの懸念は魔王にもはっきりと伝わっていた。
「何かの拍子に、なあ……」
なんとなしに、思い当たる所もないとは言えないのが魔王であった。
先日襲撃した人間の城。想定より警備兵の数が多く、更にはあのエリーシャまで待ち構えていたのだ。
勿論、魔王としてもエリーシャを足止めするつもりでジャッガや人形二人を連れ歩いていたのだが、ジャッガはともかくとしてエリーセルとノアールが破壊される事までは想定しておらず、それだけにこの想定外は魔王的にかなりの痛手となっていた。
本来、予定通りに進めば、エリーシャ以外にはほとんど誰にも感づかれず、皇帝シブーストと一部忠義者のみが死んで終わるはずだったのだから。
では何故そんな事になっていたのか。それを考えるのは容易い事であった。
恐らく、魔王が襲撃するより以前、それも極近しい期間に何かが起きたのだ。
ではその何かとは一体何であろうか。そこで今の黒竜姫の状況を見る。
そう、彼女が魔王に先だって、城に襲撃か侵入かしたのではないか。
そして都合の悪い事に見つかり、そこで何かを見てしまったのではないか、と、魔王は推理した。
あくまで想像上の話だが、そうする事で覚悟がまとまる。
「よし、解った……なんとなしに想像できた。後は……黒竜姫が、少しでも落ち着いてくれている事を祈るばかりだ」
最大の懸念は、黒竜姫が暴走していないか、という点である。
いかに魔王と言えど黒竜姫に何の加減も無しに襲い掛かられればただでは済まない。というか、殺されかねない。
魔王もまだ死にたくは無いので、黒竜姫がヒステリックな感情のまま暴力を向けてこない事を祈るばかりである。
「では、すぐに用意をさせます。どうかご武運を」
「武運が必要な見舞いってなんだ……」
もうこの時点で嫌な予感がひしひしと伝わっていた。
もしかしてラミアは面倒ごとを押し付けたくて報告してきただけなのではないかと魔王には思えてしまった。
側近の蛇女は、すました顔で、だが口元だけ一瞬歪め哂っていた。
こうして、魔王は一人、黒竜城へと向かう事となった。