#6-1.戦乙女の帰還
残暑も厳しい晩夏の日の事である。
魔王軍は旧ショコラ首都ベルクハイデを人間の軍勢に奪還されたものの、人間世界中央部には大きな楔を打ち込むことに成功し、ショコラ以東の国家は次々に魔王軍の軍勢による攻撃で孤立していき、次第に飲み込まれていった。
事前に民の避難が成功した国もいくらかはあったが、その多くは民も指導者層も逃げる事が叶わず、魔王軍の捕虜となってしまった。
これにより、ドール・マスター戴冠前には二十四あった中央諸国は、半分の十二までその数を減らす事となってしまった。
中央全体での経済力や軍の動員人数も激減し、中央諸国連合軍は自然、北部の協力なしには存続すら危うい状態に立たされてしまう。
結果的に中央には広く『聖竜の揺り籠』の影響が及ぶ事となり、その技術力や魔法知識は、中央諸国の大きな力となり、なんとか魔王軍のこれ以上の進軍を留める事が出来ていた。
そんな情勢の中、南部と中央部の境界線、大帝国アップルランドとの国境際では、大量のゴーレムが居座り続けていた。
大帝国侵攻以来、まるで動きを見せていなかったゴーレム達であったが、その数は次第に増えていき、不気味に石のこすりあう音を鳴らし続けていた。
大陸南西部・リーシア特別領・エルフィルシアにある大聖堂の一室にて。
贅を尽くした豪奢なベッドの上に腰掛ける太った中年男に、踊り子風の若い娘が腕を回し、背中から絡み付いていた。
「大司教様。何故中央部への攻撃を止めたのですか?」
猫のような甘え声で、赤髪碧眼の娘は白髪混じりの髪に鼻を当て、耳元でそっと問いかける。
「ふふ、ああして国境においておけば、その間中、大帝国は国力を消費し続ける事になる。討伐軍を編成するだけの余力は中央にはもうない。しかし、いつ攻撃してくるかも解らんから何もしないでは居られない。あのようにしておくだけで、彼奴らは勝手に弱体化していくのだ」
若い娘の感覚が心地よいのか、大司教デフは機嫌よく笑っていた。
首元に絡められた腕を手に取り、その細い指を自身の皺まみれの指と絡める。
「戦争は良い。人々にとても大きな不安を与える。そしてその不安は、我ら宗教家にとってなくてはならないものなのだ」
善くない笑みを浮かべ、娘の指に唇を当てる。
「ああ、可愛いなエレイソン。お前は本当に良い。余計な事を考えるな、私に従え。綺麗な服を買ってやろう。良い暮らしをさせてやろう。気にいった娘が居たら侍女にしていいのだ。ただ私の元に居るのだ」
愛しげに手の平に頬擦りするのだが、エレイソンと呼ばれた娘は悪戯気に笑いながらその手を解いてしまう。
そっと背中から離れてしまう。興をそがれる態度に、大司教は眉を下げ、しょぼくれてしまった。
「どうしたのだ?」
「ふふふっ、大司教様。私、野心にまみれてる貴方が大好きなんですの。安寧に溺れるだけの年寄りなんてうんざり。世界は、戦い続けてこそ幸せになれるのだわ」
それは、悪魔の微笑みであった。男を誘う罪なるテンプテーション。
太ももまで晒す大胆なスカートは、組みなおされる足によってひらひらと舞い、大司教の視線を泳がせる。
「ならば私とお前の思惑は一致してるじゃあないか。お前は、私と共にあればこそ、幸せになれるのではないか?」
「そうですわ。でも、殿方は焦らした方が嬉しいのではなくて? だからゴーレムも置いたままにしているのでは?」
そうかと思えば、そっと大司教の耳元まで擦り寄ってきて、耳に小さく息を吹きかけた。
「私を、見誤るなよ」
それは鋭い眼だった。欲で曇りきった眼には善人の光など見当たるはずもなかったが、紛れも無く先を見通す眼であった。
「お前は気をつけないといけない。私は、決して焦らされてご褒美を与えられ悦ぶ豚ではない」
じっと、エレイソンの蒼い眼を見つめながら抱きしめる。髪を撫でる。首筋に鼻を当てる。
「私は、こう見えて野心家なんだ。目の前に美味そうな餌があれば、むしゃぶりついてしまいそうになる。だが、考えるのだ」
「考える……?」
「そうだ。『このご馳走を、どうやったら最も美味く味わえるのか』とな」
若い髪の香りを堪能し、大司教は再びエレイソンの顔を見つめ、そして――そのまま押し倒した。
帝都アプリコットの皇城にて。
ベルクハイデの戦い後、諸所の手続きや戦後処理等に手間取ったエリーシャは、ようやくここにきて皇帝との謁見を果たす事が出来たのだった。
「ご苦労だったなエリーシャ。中央の防衛ライン構築、そしてベルクハイデ奪還。諸所の勤めご苦労であった」
玉座にてエリーシャを迎える皇帝。例によって従者や兵士は居らず、二人だけの謁見となっていた。
「私としましては、ベネクト諸国はともかくとして、巻き添えを被った中東部の諸国を救えなかったのが心残りでなりませんわ」
ずっと心配していた勇者の帰還に、皇帝は顔を綻ばせていたが、当のエリーシャは思うところもあるのか、複雑そうな表情であった。
「うむ、このような事は二度と起こらぬようにせんとな。よもや、ショコラの滅亡を見て、また同じような事を企てる国もなかろうが……」
「南部がまだ健在な以上、どこに火種が隠れているか解りませんわ。警戒するに越した事はないかと」
ベネクト三国の裏切りは、諸国だけでなく、魔王軍と対峙する連合軍最前線においても厳しい状況を作り出していた。
目の前の敵だけで手一杯だというのに、自分達の真後ろに潜在的な敵がいるかもしれないのだ。おちおち休む事もできない。
「ベルクハイデ奪還に関しても、敵の混乱戦術によって少なくない数の兵が心を患ってしまいました……」
人の精神を破壊するパニックストームの魔法は、それに掛かった者は勿論の事、その周囲に居た者にまで精神的な影響を及ぼす。
ただでさえ極限状態である戦場に立っているのに、隣にいた者が突如発狂するのだ。
どんなに精強な兵士であっても、その精神的な負担に耐えるのは難しい。結果、心を患ってしまう。
「戦地から帰還しても平穏に身を置けぬ兵士というのは昔から少なからず居たが、魔法によってそれが誘発されるのは恐ろしいな……」
「何とか敵の指揮官を見つけ出し、これを撃破する事に成功しましたが、あのまま放って置いたら、軍を集結させられずに各個撃破されていたでしょう」
エリーシャが赤い帽子のウィッチを倒せたのは、あの時たまたま一緒の場所に隠れた弓兵達の働きあってのもの。
これが元で上空から迎撃してきたウィッチ達は撤退し、地上の魔王軍の士気もガタガタになったのだ。
まさに偶然がもたらした勝利と言っても過言ではない。
「その偶然を引けたのがエリーシャ、お前だというのを忘れてはいかんぞ。お前は、そういう星の下にいるのかもしれん」
エリーシャは類稀な強運の持ち主であった。
初陣から今に至るまで、死んでもおかしくない状況に立たされたことは一度や二度ではない。
敗北必至な状況に追い込まれ、それを決死の行動で形勢逆転させた事もあるが、それら全てが彼女の智略に拠る物ではないのだ。
エリーシャという世界でも名の知れた勇者が一人生き続ける為には、多大な偶然や奇跡が必要だった。
「戦場において運が強いのは悪い事だとは思いませんが。どうせならもう少しマシな星の巡り合わせの下生まれたかったですわ」
もっとも、エリーシャは苦笑いしていた。
そんな状況になるくらいなら、始めからならないような運を授けて欲しいと思っていたのだ。
「まあ、勇者なんてのはそんなものだ。そうなれない奴は死んじまう。嫌気が差したか?」
いつもよりもネガティブな思考になっている勇者殿に、皇帝は髭をいじりながら、にやりと笑った。
「いえ……ただ、今回の出陣で人の心の闇を見てしまいましたから。なんだか、少しだけ斜めに考えるようになってるみたいですわ。お許しを」
南部とベネクト三国の裏切りはエリーシャに強い動揺を生み、今まで守ってきたつもりだった人間達の『底知れぬ醜さ』を垣間見せていた。