#2-1.記憶の中の女
陽射しのうららかな春の日の事であった。
楽園の塔の空中庭園にて、魔王はのんびりとその暖かな光を浴びていた。
塔の娘達がお茶会をする際に使うテーブルなのだが、今日は魔王とアリス以外にはそこに居ない。
「ああ、ようやく暖かくなった。これ位の季節が、一番楽で良いんだが」
「私もそう思いますわ」
とても戦争中とは思えないようのんびりとした空間であった。背伸びなどして、お茶など飲んで。
傍らに控えるアリスも、どこか嬉しそうに微笑んでいた。
「我が軍が中央部に深く食い込めば……遠からず、帝国への侵略を考慮する事になるだろうな」
のんびりとしながらも、戦争の事は考えずにはいられない。
そんな時、魔王が第一に思い馳せるのは、時折様々なところで出会う女勇者であった。
「エリーシャさんと戦う事になるのは忍びない……だが、彼女が勇者である以上、いずれ私は彼女を殺さなくてはならん。彼女を殺すための決断をしなければならん」
「辛い選択ですわね」
「全くだ……」
アリスも眉を下げていた。
やはり、彼女と戦う、というのは魔王的にもアリス的にも辛い事なのだ。できれば選択したくない選択肢であった。
「だが、ハッピーエンドの為には犠牲もやむなし、という事なのかもしれんなあ」
自らの幸せの為に、他者を踏みにじる。それは仕方の無い事なのかもしれなかった。
少なくとも、魔王はそう考えていた。
「いささか本末転倒ではあるが。その為に友達も切り捨てなくてはいけない」
苦笑する。そんな事をしなくてはいけない状況になっているのが子憎たらしかった。
できる事なら、そんな事にはなって欲しくなかったのだ。
「アリスちゃん、君は、エリーシャさんと戦えるかね? 殺せと言われ、命を奪えるかね?」
だから、魔王はアリスに問うのだ。自分と同じ覚悟が、この愛しき人形にあるのかを。
「……戦えますわ。旦那様の命であれば、たとえエリーシャさんであっても」
わずかの間。そのほんの少しの迷いを、魔王は感じ取った。
「そうか、ありがとう」
だが、それを責めるでもなく。魔王は嬉しそうに笑っていた。
「お初にお目にかかる、魔王アルドワイアルディ殿」
魔王城の玉座にて。突然来訪してきた中年と、その侍女だという女の二人が、魔王と謁見をしていた。
「貴様が謁見を申し出たという者か。なるほど、確かに魔族のようだが、見知った面ではないな」
アルドワイアルディと呼ばれた黒髪長髪長身のこの男は、この来訪者に対し、興味深げにじろじろと見ていた。
傍らには赤髪の蛇女が一人。彼の側近のラミアである。
「ご推察の通り、私どもはこの世界の者ではございません。この世界へは、魂の扱いが上手い、特殊なマジックアイテムを作る事の出来る魔族が居る、と人づてに聞いて参りました」
礼儀正しく、しかし慇懃に過ぎず。この男は、誰もが恐れる魔王に対して、臆することなく笑っていた。
「部下から聞いたが、確か『伯爵』とかいったな……真の名は何というのだ?」
「申し訳ございません。己に誓った事がございまして。真の名はそれを果たすまで使わぬ事にしております。ただ、『伯爵』と呼んでいただければと……」
申し訳なさそうに人のよさそうな困り顔で、しかしそれでも魔王に対して名を明かさぬというこの男に、ラミアは怪訝な面持ちになる。
「伯爵とやら、陛下に対して、それはいささか無礼ではありませんか? 貴方も魔族というのなら、この世界の魔族の王たる陛下には全てを明かすべきでは?」
しかし、直後に「かまわぬ」というアルドワイアルディの言葉に、ラミアは言葉を詰まらせてしまった。
「この世界の魔王であるという肩書きなど、異世界の者には何の意味も成さぬだろう。貴様も、その後ろに控える女も、中々に余を楽しませてくれそうだ。敵として戦えればこれほど楽しめそうな者は居まい」
そこで初めて、魔王は伯爵の後ろで控え、澄ましている女を見た。
「生憎ながら、戦うのはあまり好きではございませんで。この度は、よろしければ陛下の足元で動く事をお許し願えればと」
しかし、伯爵は例の困ったような顔のまま、魔王の言葉には流されぬように話を進めた。
「ふん。つまらぬな」
余興に乗ってはくれぬのか、と、魔王はいささか失望したように溜息をついた。
「余は敵に恵まれておらぬ。魔王として君臨して以来、一度も苦戦させられた事が無い。今までの魔王が何故人間如きを滅ぼせないでいたのかが解らぬ。戦争が、つまらぬのだ」
寂しげに吐露する。世界は自分に優しくない。求めるものを、何一つ与えてくれない、と。
「そのお気持ちは、いたく解ります。何故自分がそんなに強いのか。何故自分と戦える者が居ないのか。ずっと疑問に感じてしまうのですな」
結局、何も変わらない。そう思い始めていた魔王であったが、しかし、この伯爵という男は、彼の心を揺さぶるような事を言い始める。
「解ってくれるのか」
それを理解してくれた者は、今まで誰一人としていなかった。
彼と同等位には戦えるはずの彼の兄ですら、彼の心は理解してくれなかった。
それを、この男は解るのだという。言葉だけでないというのは、魔王にも感じられた。
「私も経験がございます。ですが、いずれ出会えるでしょう。貴方様を熱中させてくれる者が」
その末に何が待っているのかまで言わなかったのは、彼なりの優しさか。それとも、思うところあってなのか。
伯爵はそれ以上は余計な事は言わず、ただ笑っていた。魔族らしからぬ、慈愛に満ちた優しげな笑顔であった。
「……気にいった。この世界に居る間は、余の直属として好きに動くがいい。必要ならば、余の部下に協力もさせてやろう」
それで決まったのだ。魔王が彼を、どのように扱うかを。
「陛下……?」
「ラミアよ、余は嬉しいのだ。このような者が余の元を訪れる。このような偶然があるのだ。『敵』はいつか現れてくれる」
不安げに顔を見ていたラミアであったが、魔王は満足げに笑っていた。
その先に自分の望む未来が待っているのだと信じて。魔王は笑っていたのだ。
「……かしこまりました。伯爵殿を陛下の直属として……ですが、我らの法には従っていただきます。無法で好きにされては困りますので」
「無論にございます。そちらにはそちらの都合、というものがありましょうから。陛下の格別のお計らいに感謝致します」
よろしくラミア殿、とにこやかに笑う伯爵であったが、ラミアは複雑そうであった。
「ネクロマンサーの屋敷の場所を教えてやれ。アレならば伯爵の望み、叶うはずだ」
「かしこまりました。伯爵殿。こちらに――」
魔王の言葉を受け、ラミアは先導した。
「はい。では陛下。私どもはこれにて――」
静かに頭を下げる男女に、魔王は言葉を返す事無く、にやりと笑って見せた。
ラミアの案内を受け、ネクロマンサーという男の住居の場所を聞いた伯爵と侍女は、のんびりと魔王城を歩いていた。
教えられた場所は魔王城の外なのだが、荘厳な雰囲気の漂うこの城を見物させてもらう事にしたのだ。
「いい城だ。私が居た城より、手入れが行き届いている」
古めかしい装飾がなされている古城なのだが、城主が綺麗好きなのか、それとも使用人が優秀なのか。
隅々まで丁寧に装飾され、古さがみすぼらしく映らないように工夫が凝らされている。
「主様も、このようなお城に興味がおありですか?」
かかと程までの長さの透き通った金色の髪と、どこまでも深い碧色の瞳。
それまで一言も喋らず澄ましていた侍女は、ここにきてようやく口を開き、主に問うた。
「ふふ、まあ、こういう城なら住んでいて気持ちはいいだろうな、とは思う。別に欲しい訳ではないがな」
「なるほど」
主が別にソレを求めている訳でもないらしいのを確認してか、侍女は納得したように頷いた。
「まあ、あの魔王陛下が私に協力的で助かったよ。無視されるならともかく、邪魔などされてはたまったものではないからな」
「障害足りえるはずもございません。あの程度の魔族など、瞬時に掃除して見せますわ」
「そうならなくて良かったよ。私は、できればお前に戦わせたくない」
表情を一切変える事無く悠然と言い放つ侍女ではあったが、伯爵はあまりそれを望んでいないらしく、眉を下げていた。
「ですが、主様の邪魔となるならば、それは速やかに排除しなくては。それが私の役目ですわ」
「まあ、そうなのだが。しかし、お前は変わらないな。様々な世界を旅して尚、お前は変わらない」
そうして、いつまでも同じままのこの侍女に、苦笑していた。
「そうでしょうか? 私は、自分ではそうは思わないのですが」
主の言葉にも声の高低の無いままに答え、侍女は澄ましていた。
「いや、変わらなくて良いのだ。そのまま変わらないでいておくれ、ヴァルキリーよ」
苦笑しながら、しかし伯爵は、この侍女の変わらなさに、愛着のようなものを抱いていたのだった。
結局、今の彼の元にはその侍女は居らず、代わりにアリスがその場所に立っていた。
同じ金髪。同じ碧眼。顔立ちも似ているが、アリスよりずっと大人びていて、そして、何者にも変えがたいほど美しかった。
どこまでも穢れる事の無い魂と、永遠に美しく純粋な愛。
その両方を兼ね合わせ、長きに渡り自分に尽くしていた愛すべき侍女。
それが、今の彼の元には存在していなかった。
「……旦那様?」
その表情はいかなものだったのだろうか。アリスが心配そうに覗き込む。
「いや、なんでもない。なんでもないんだよ」
顔立ちは似ているのに、表情は全く違っていた。
これが彼女であったなら、きっと無表情のまま同じ言葉を言うのだろう、と考え、魔王は唐突に気づいてしまった。
「私は、まだあいつの事を忘れられないんだなあ」
つくづく、自分が執着しやすい性格であるのだと思い知らされ、一人ごちていた。