#7-1.黒竜王の望んだ世界
ある夏の日の事であった。
人間世界の中心とも言える大帝国は、この度魔王の突然の襲来によって混乱を極めていた。
大空を巨大な影が空を舞う。
上空を旋回し、時折地面スレスレまで降りてきたかと思えば、その都度猛毒のトキシックブレスを吐き、帝国の哀れな人間達を瞬時に腐食させていった。
黒竜王・アルドワイアルディ。
当代最強の黒竜であり、魔王エアロ・マスターとして人々に恐れられる暴虐の魔王である。
彼は時折このように突然思い立って人間の領地に襲い掛かり、単騎で人類圏の国家を次々に滅亡させていた。
長く続く竜族の人生において、戦い続けることとは誉れであり、何物にも変えがたい喜びであった。
女好きで性欲に溺れがちな彼の兄と比べ、アルドワイアルディはこと戦ごとに関してはストイックであった。
戦い続け、勝ちたい。
その為だけに襲撃し、わざと全滅させず、生き残った者達に必死の対抗策を編み出させようとする。
彼にとって、今人間の国家を滅ぼそうとするのも、後に残る人間の国家がより危機感を増させ、より増強され、てごわい敵となってくれるのを望むためである。
そうして彼はまた、待ち続けるのだ。新たな国が芽吹く事を。
灰と化した国の後に生まれる、より強く、より楽しませてくれる新たな国が誕生するのを。
街が消滅し、多くの人が死んでいく。
しかし、死した魂はより多くの新たな命を生み出し、敵を更に強くしてくれる。
いずれきっと、自分を満足させてくれる敵が現れるのを待ちながら、彼は今日も国を滅ぼさんと空を舞う。
「単騎でこれほどでは、魔王軍の存在意義はありませんなあ」
ひとしきり暴れ回り、翼を休ませる為に降りたった山の頂に、配下の魔族が一人、控えていた。
漆黒の外套をはためかせる人間の貴族風の男と、その腕に抱かれた少女人形。
『伯爵か……貴様を連れてきた覚えはないのだが』
「ははは、気まぐれでついてきてしまいました。その、竜族の戦いというのを一度目にしたくて」
アルドワイアルディにとって彼は、比較的新参の配下であった。
突然自分の元に現れ、配下として使って欲しいと願い出た異世界の魔族である。
様々な世界を旅してきたと言い、関心を示したものにしか固執しない、魔族としてはやや変わり者な性質の男であった。
『好きにしろ。もっとも、見れば解るだろうがこれは虐殺以外の何物でもないがな』
「それはもう十分に堪能致しました。まあ、後は適当に散歩などして勝手に帰るつもりです」
恭しげに一歩下がり、礼などする。優雅な仕草である。
彼が『伯爵』などと呼ばれているのも頷ける、とても貴族然とした作法であった。
『ふん、このバルトハイムとかいう国家、滅亡させるにはまだ早かったらしい。いま少し待ってから滅ぼすべきであった』
「まだ完全には滅びていないようですが? 皇族を始め国の舵取りをしていた者達は逃げ延びたようです」
『この上は余が動くに値せぬ。このまま放っておいて滅びるならよし。持ち堪え、再び繁栄するならば、その時にまた滅ぼすのみよ』
この、竜族としても特異なストイックさを持つ黒竜王は、端からこの戦争を自分の楽しみの為に存在しているものとしか思っていなかった。
人類と魔族との憎しみあいなどにも興味はなく、あくまで人間は敵であると考えながらも、この時代の魔族としては珍しく、人間を全く差別していなかったのである。
『伯爵よ、貴様の旅した世界も、このように人間は弱いのか?』
だが、時折、彼は疑問を抱く事もある。
本当に自分の求めるほどに、人類が強くなってくれる事がありえるのだろうか、と。
「そうですなあ、世界にもよりますが。人が完全なる敗北の末に奴隷と化した世界もありますれば、逆に、人が全てを制する世界もありましたゆえ。そういった世界では、むしろ魔族こそがこの世界の人間のように、一方的に嬲られる存在でしたなぁ」
伯爵の言葉はとても不思議なもので、嘘か本当かは解らないながらも、とても強い興味を彼に与えていた。
『不思議なものだな。バランスが良い世界が一つもないかのようだ』
「まさにそうなのです。均等な世界など、唯の一つもございませんでした」
あったのは、どちらか片一方の支配下による平和。あるいは暴虐。
結局の所、どこの世界に行っても『互角の戦い』などというものは存在しなかった、と、伯爵は言うのだ。
『ならば、この世界がそのようになれば、それは初めてそうなるという事だな』
「私は陛下と違い、あまり戦うのが好きではありませんで、できれば魔族の勝利で終わって欲しいものですが」
『無論だ。勝つのは余である。だが、ただ勝てばよいというものではないのだ。兄上も他の魔族どもも、それを考えぬものばかりでつまらぬ。純粋に戦いを楽しもうと考える事の、何が間違っているというのか』
アルドワイアルディは嘆いていた。
彼の思想は、魔族でありながら同胞であるはずの黒竜族からもあまり受け入れられていない。
同じ戦闘狂であっても、ただ勝てればいい、ただ滅ぼせればいいという考えの者が多い魔族にあって、彼はやや孤立していた。
その孤立がゆえに、黒竜族という、他の種族に忌避されがちな種族でありながら魔王に選ばれたのであるが。
「良い考えほど、他の者はあまり理解してくれないのですよ」
伯爵はというと、人のよさそうな困ったような笑顔のまま、地に付いた魔王の翼にぽん、と手を置いたのだった。
アルドワイアルディが魔王城へと飛び去った後、伯爵は先の宣言どおり、のんびりと廃墟となった街を散策していた。
バルトハイムの帝都・デルタ。
栄華を極めたその街は、本来ならば人類圏最大の高さを誇る防壁と警鐘塔を持ち、堅牢な守りを誇っていたはずだったのだが。
所詮は、黒竜一人の襲撃で滅亡してしまう程度の堅牢さであった。
「やれやれ、これでは、何も残っていないかな?」
くたびれた表情で溜息をつく。腕に抱いた人形に向けての物か、それとも独り言だつたのか。
建物もろとも毒霧にまみれ無残に溶けた元人間達の破片がそこかしこに散らばっているものの、生存者らしき者は誰一人居らず。
やはりこの地は、死に満ちた敗北の世界であった。
『旦那様、何か探しているのですか?』
不意に、腕に抱かれた少女人形が顔をあげ、主に問うた。
「さあ、何を探してるんだろうね、私は」
疲労したような表情で、伯爵は笑うのだ。苦笑いの笑顔。疲れきっていた。
『魂がすごい濃度になっていますわ。まるで墓地のように』
「まあ、一瞬で何もかも滅びたからね。ありとあらゆる魂が飛び交ってるだろう」
伯爵には見えないが、彼女にはそれが見えているらしかった。
愛らしい碧色の瞳がすうっと細まり、小さな溜息。
『綺麗です……』
感動したような、見惚れているような。そんな乙女チックな言葉に、伯爵は「ククク」と、つい笑ってしまった。
『何かおかしな事がありまして?』
それが気になったのか、人形は主に問う。どうして笑うのか意味が解らないと言わんばかりに。
「いやすまない。君は、人形でありながら、そんな風に感情豊かに笑うんだねぇ」
『人形が、感情豊かに笑うとおかしいのですか?』
「普通はね。いや、私達がそれを認識できていないだけなのかもしれんが。魂が見えないのと同じでね」
『……?』
自嘲気味に呟く伯爵であったが、人形はそれを理解しきれていないのか、不思議そうに首を傾げるばかりであった。