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当作品はサイトからの転載です。
十月の終わり。明日はハロウィンだというのにシルバークロス・タウンのバー、『シルバー・ローズ』に客はまばらだった。大型のハリケーンが近付いているせいだ。
レイはカウンターに置かれたジャック・オー・ランタンを見つめながらぼんやりと思い出していた。まだ自分が人間だということに疑いすら抱かなかった子供の頃のことを。レイは七歳だった。その頃は人間の友人がいて、彼らとハロウィンの夜に仮装して家々の戸口を回り、お菓子をもらうことを楽しみにしていた。
ハロウィンの二日前。
レイは高い木の枝に登って降りられなくなった子猫を助けようと木に登った。細くて危なっかしい枝に足を掛け、無事に子猫を抱えあげた途端に枝が折れ、助け出した子猫を庇うように地面に落下したレイは右足の付け根を折ってしまった。そのまま病院に行ってギブスを嵌めてもらったが、骨折は翌日にはすっかり治っていた。学校に行こうとするレイを母親は止めた。
少なくとも一週間は家にいて安静にしていなさいと。母さんはなんで僕を学校に行かせてくれないの? 抗議は無視された。何故かは判らなかったが、母親を困らせたくはなかったので学校を休んだ。
ハロウィンの夜。レイは家の窓から外を見ていた。
――トリック・オア・トリート!
遠くから子供たちの声が聞こえる。笑いさざめく彼らの無邪気な声が心の奥底を抉ってくる。この日の為に母親が縫ってくれたヴァンパイアのマントをビリビリに引き裂いて泣いた。
――母さんには悪いことをしたな。でも俺は自分の回復力に疑問すら持っていなかった。みんなそういうものだと思っていた。だから、何故、治った足でハロウィンに参加してはいけないのか理解できなかったんだ。何でもない足にギブスをつけて松葉杖で学校に行くことがとても嫌だった。でも、母さんはそうしてくれないと私達が困るのよ、と涙を浮かべた。だから――
「レイ。もう今日は店じまいよ。ちょっと早いけれどね。この風じゃ、もう誰も来ないわ」
バーバラの声にはっと我に返るとレイは店の中を見回した。客は皆、帰ってしまったようだ。
「判りました」
レイは入口のドアを開けて外へ出た。突然の強い風にちょっと顔を顰める。空を埋め尽くすし、先を急ぐように流れている雲は黒く、不安な色を湛えている。外の札を『CROSED』のほうに裏返し、中に入ってドアを閉めようとした時、誰かが視界の外からドアのノブを素早く握ってきた。
「おやおや。もう店じまいか? 一杯でいいから飲ませてくれよ」
その声とともに二人の人物が視界に入ってきた。
長身で髪先を遊ばせた淡い琥珀色の短い髪に濃いブラウンのサングラスを掛けた二十代後半くらいの整った顔立ちの男と、ストロベリー・ブロンドのセミロングに薄茶の潤んだ瞳の官能的な美女。肩の開いたセクシーな赤いミニドレスの女は男の肩に寄りかかるようにしている。男の方はもうかなり飲んできたのだろう。ひどく酒臭い。レイは断るべきかどうか少し迷った。
「レイ。お客様なの? まだ大丈夫よ。入れて差し上げて」
バーバラの声にレイは頷き、ドアを開けて二人を通した。
「失礼いたしました。いらっしゃいませ」
優雅な仕草で二人を招き入れたレイを男は興味津津な様子で眺めている。
「ほう? 君はなかなかの美形だね。俳優になったら人気が出そうだな」
――この声。何処かで聞いたことがあるな。
レイははっとした。この男は俳優だ。最近、ホラー映画で人間に恋するヴァンパイアの役を演じて評判になっている。
「おや、気が付いたかい? 今日はお忍びなんでね。気を使わなくて結構だよ」
バーバラに一目で高価なオーダーメイドとわかる黒いジャケットを預けてカウンターに腰を下ろすと、男はふっと軽く溜息をついてサングラスを外した。髪の色よりも少し濃い澄んだ琥珀色の瞳。それこそが全米の女性ファンを虜にしている彼のトレードマークだ。
「ご注文は?」
「ああ。さすがに今日は飲みすぎたかな。ウォッカを頼もうかと思ったが我慢しよう。オレンジジュースを頼むよ。お前はどうする? アンジェラ」
「あたしはいらない」
アンジェラと呼ばれた女は男の肩にしなだれかかり、男の横顔を舐めるように見つめながら甘えた声で答えた。
レイは女の匂いに少し戸惑った。
――この女。人間とは少し異質な匂いがする。だがヴァンパイアでも獣人でもなさそうだ。いや、単に気のせいか?
「今日は映画の撮影なんですか? トワイライトさん」
バーバラが少し顔を紅潮させて問いかけると、男は軽く微笑んだ。
「ダニエルで結構だよ。その通り。この近くの森で撮影ロケがあってね。今晩はこの街のホテルに泊ってるんだ。今日はホテルにいろってマネージャーが煩くてね。ボディガードの目を盗んで抜け出してきたんだよ」
ダニエル・トワイライト。私生活ではかなりのプレイボーイで、パーティや授賞式の度に連れてくるパートナーが違うらしい。
レイは冷たいオレンジジュースのグラスをダニエルの前に置いた。
「どうぞ。映画……ひょっとしてあの『ヴァンパイアの恋人』の続編ですか?」
「ああ、どうも。まったく俺はヴァンパイア役なんて正直言って苦手なんだけどね。人気があるからまだ数本は撮らなくちゃいけないらしい」
「どうして苦手なんですか?」
「あの牙だよ。どうも特殊メイクってやつは好きじゃない。まあ、仕方ないけどね」
「よくお似合いだと思いますよ、あの牙」
――正直、人を襲う時の目の輝きの鋭さは再現されているとは言い難いけれど。
「ほう? もしかして君はあの映画を見てくれたのかな?」
「ええ、見ましたよ。あなたのヴァンパイアはとても魅力的でした」
「ありがとう。楽しんでいただけて嬉しいよ」
「ただ……映画はつまらなかったです」
ダニエルはレイの言葉が意外だったのか、少し片眉を吊り上げた。
「それは興味深いね。どこがつまらなかったのか教えてもらおうじゃないか」
「あなたの演じたヴァンパイアは人間の女性と恋に落ちました。で、すぐに仲間に加えようとするけれど、彼女に拒否されてしまう。あれは変です。ありえない」
「どうして?」
「ヴァンパイアの苦悩を知っていればありえないと思うんです。愛する女性を仲間にしようなんて」
「これは面白いね。もう少し詳しく聞かせてもらおうか」
身を乗り出したダニエルの視線をレイの鋭いペール・ブルーの瞳が跳ね返した。
「いいですよ、ダニエル」
「ねえ、レイ。あなた、もうそろそろ帰ったほうがいいんじゃないかしら」
会話の成り行きに危険を感じたバーバラがさりげなく話を終わらせようとしたが、レイはそのまま言葉を続けた。
「あのヴァンパイアは理想です。現実のヴァンパイアはハンターに怯え、ひっそりと暮らしている。吸血衝動に苦しみ、それから逃れたいと思っても逃れられない。そんな境遇に愛する女性を立たせようとすること自体が俺には理解できないんです」
「なるほど。君はずいぶんとヴァンパイアのことに詳しいんだね」
「ええ。興味があるんでね。いろいろ研究してるんです」
「まあ、君の言いたいことは判るよ。でもあれはラブロマンスなんでね。現実のヴァンパイアは考慮していない。世の女性達に夢を与えられればそれでいいんだよ」
「そうでしょうか? 現実を描くことで、正しい知識を広めることも大事じゃないかと俺は思いますが」
ダニエルは目を細め、オレンジジュースのグラスに手を伸ばした。
「でも、もし君がヴァンパイアで相手の女性が仲間になりたいと言ってきたらどうする? あなたと同じ時を生きたいと言ってきたら」
――同じだ。あの時のロザリーの言葉と。でも、俺は彼女を仲間にすることはどうしても出来なかった。
レイはきっぱりと答えた。
「俺なら断ります。それで彼女が悲しみ、別れることになったとしても」
ダニエルはしばらくレイの顔を見つめたまま黙っていたがそれ以上、レイに反論しようとはしなかった。オレンジジュースを一気に飲み干すと、カウンターに百ドル札を一枚置いてそのまま立ちあがった。
「ありがとう。君の意見は参考にさせていただくよ」
その言葉が単なる常套句以上のものではないことはレイにも判った。
「あの、お釣りは……」
「ああ、いらないよ」
バーバラの言葉にダニエルは軽く手を挙げて微笑みかけ、更に十ドル札を何枚かレイの前に置いた。
「ごちそうさま。お陰で酔いが醒めたよ」
ダニエルがバーバラからジャケットを受け取ってドアのほうへ向かうと女も立ちあがった。一瞬、女がダニエルのほうを見て何ともいえない不気味な笑みを浮かべたのにレイは気付いた。
「ありがとうございました」
ドアが閉まり、店内に静寂が戻る。
「すみません。バーバラ。俺のせいでサインをもらい損ねましたね」
「ああ、いいのよ。それより気をつけてね、レイ。正体がばれたら大変だから」
「そうですね。気をつけます」
――あの女。何か企んでいるような気がするが……まあ、単にいくら金をせびろうか考えているだけかもしれないな
いずれにしても彼らの後を追う必要はないだろう。レイは汚れたグラスを洗い始めた。
突然、いくらか乱暴なノックの音が店内に響いた。バーバラがドアを開けると、そこには洗いざらしのGジャンとジーンズ姿で髪をくしゃくしゃにしたデビィが立っていた。強い風が吹きこんできてカウンターの後ろに置かれたグラスがカタカタと音を立てる。
「いやあ、まいったまいった。酷い風だぜ。よう、バーバラ、レイ。元気だったか?」
「ええ。今日は店の売り上げは元気がないけどね。さあさあ、早く入って、デビィ」
屈託のない笑みを浮かべながらデビィが入ってきた。
「どうしたんだ、デビィ。今日は好きなドラマがあるんじゃなかったのか?」
「いや、番組が変更になっちまってさ。つまんねえから来てやったんだ」
「なんだよ、それ。つまんねえからって」
「まあ、いいじゃねえか。それよりなんか飲み物くれよ。喉が乾いちまった」
「で、なんでまたオレンジジュースなんだよ」
「ああ、さっきの客に作った分が余ってたからね」
レイが先ほどまでダニエル・トワイライトが来ていたことをデビィに話すと、デビィは少しがっかりしたように首をすくめた。
「畜生。もう少し早く来てれば会えたのになあ」
「ロケだって言ってたから、しばらくはこの街のホテルに泊るんじゃないかな。何処かで会えるかもしれないぜ」
「いや、別にいいよ。それより相手役のメロディ・サンシャインのほうに俺は会ってみてえな。彼女も同じホテルなのかな?」
「さあね」
「彼女、人嫌いだっていうし、街を歩いたりしないんじゃないかしら」
バーバラはそう言いながら、デビィの前にフライドポテトの皿を置いた。
「一時間ぐらい前だったかしら。若いカップルのお客さんがいらっしゃってね。男性のほうが女性の為に頼んだんだけど、女性がダイエット中とかで全然口をつけてないの。残り物で悪いんだけどよかったら食べて」
「ああ、いつもすみません、バーバラ」
山盛りだったフライドポテトはほどなくデビィの腹に収まった。
ダニエルはなるべく人目につかないように裏通りを遠回りしていた。歩きながら、腕に絡みついている女の身体を改めて吟味する。女とはその日の午後、ホテルのロビーで知り合ったばかりだった。女はカリフォルニアから商用で来たと言っていた。ブティックの経営をしているらしい。だが、ダニエルにとってそんなことはどうでもよかった。行きずりの女は単なるセックスの相手だ。なかなかいい夜になりそうだ、と口元を緩めた。今夜はうるさいパパラッチの連中も見かけない。まあ、写真を撮られたからといって何か困るわけでもないのだが。
ホテルの正面玄関からロビーを抜けてエレベーターの前に立つと、ダニエルより一瞬早く女が下降のボタンを押した。地下は駐車場だ。
「おや? 俺の部屋は六階なんだけどな」
「部屋に行くのはまずいんじゃない? ボディガードや映画のスタッフに見られるかもしれないし。それより、あたしの別荘に行きましょうよ。地下に車が置いてあるのよ」
レイが皿洗いを終わらせ、着替えを済ませると、二人はバーバラを残して店を出た。ときおり吹きつけてくる凶暴な風に歩みを妨げられながら、アパートを目指す。まだ時刻は十時を過ぎたばかりだが、人通りはほとんど途絶えてしまっている。『シルバークロス・タウン・ホテル』の前を通りかかるとデビィは立ち止り、興味深げに窓を見上げた。この街で最も有名なこのホテルは六階建てで薄茶色の外壁が落ち着いた品のよさを感じさせる。
「やっぱりメロディはスイートルームかな。窓でも開けてくれりゃ嬉しいんだが」
「この風で窓を開ける奴なんかいるわけないじゃないか。それにこのホテルに泊ってるとは限らないし」
「いや。ここだ。間違いねえ。俺は女に関しては勘が鋭いんだ」
「ああ、なるほどね」
レイは風で煽られる薄茶色のウールのジャケットの襟をかき合わせながら、にやついてるデビィを置き去りにして歩きだした。だが、駐車場の入口の前を通り過ぎようとした時、レイはびくりと身体を震わせて立ち止った。
「……聞こえたか? デビィ」
聞こえてきたのは男の悲痛な叫び声だ。
「ああ。聞こえた。駐車場だな」
レイは駐車場の奥から異様な匂いが漂ってくるのに気付いた。
「行ってみよう、デビィ」
「ああ、そうだな」
二人は駐車場のスロープの中を走り抜け、料金所のバーを飛び越えると太い柱の立ち並ぶ駐車場の中を見回した。
ロケ車の遥か先に見える黒い車の前で誰かが押し倒されている。覆いかぶさっているのは真っ赤なドレス。あの女だ。二人は走った。
悲鳴を上げているのは倒された男。ダニエルだ。レイは女が彼の首筋に牙を立てているのに気付いた。
ダニエルの身体が痙攣している。悲鳴が弱弱しく途絶える。このままでは死んでしまう。
「おい、止めろ! もうそれで十分だろう」
レイは後ろから素早く女の身体に手をかけて、無理やりダニエルから引きはがした。驚いた女は身を捩り、レイの腕からするりと逃げ出すと金色に輝く目でレイを睨みつけた。その唇は血に染まり、強烈な匂いがその身体から放たれている。ヴァンパイアとは違う、麝香のような不思議な匂い。レイは何故か今までに感じたことのないような恐怖を感じた。
「お前……何者だ」
女は答えなかった。次の瞬間、その背中から真っ黒な蝙蝠のような翼が生えた。その翼は伸ばすと片方だけで9フィート10インチ(3メートル)ほどもある。女は甲高い悲鳴のような声をあげて羽ばたき、宙に浮いた。そして唖然として立ちつくすレイとデビィを嘲笑うかのように駐車場の外へ向かって滑るように飛び去っていった。
レイは女の後を追い、駐車場の外へ出た。空を仰ぎ、目を凝らしたが既に女の姿はなかった。歩道の中央まで出て左右を見回したが、それらしい影はない。もしやと思いホテルを振り返った。壁面には誰の姿もない。あの強烈な匂いも既に薄くなり、消え去ろうとしている。レイは心臓が高鳴っていることに気が付いた。あの女の姿を見た時に感じた恐怖はいったいなんだったのか。
――やはりあれはヴァンパイアだったのだろうか。……そうだ。翼を持つヴァンパイアの一族の話なら確か父に聞いたことがあるな。
だが、それはあまりにも昔のことでよく覚えていない。後で調べてみる必要があるな、と思いながらレイは再び駐車場の中に戻って行った。
デビィは倒れているダニエルの前でレイを待っていた。
「大丈夫だ。死んじゃいねえ。どうする? 部屋に運ぶか?」
「いや……」
レイはダニエルの首筋についた牙の跡にそっと手を触れ、血をぬぐい取った指をしゃぶった。美味い血だ。突然、このまま首筋に齧り付いて血を啜りあげたい衝動が湧きあがってきた。目が青い光を宿し、ゆっくりと牙が伸び始める。
「ああ……くそ! ちょっと待ってくれ、デビィ」
目をつぶり、呼吸を整えて、吸血衝動をどうにか抑え込む。ゆっくりと牙が短くなっていく。
「大丈夫か? レイ」
大丈夫だ、とレイは小さな声で呟いた。この街、シルバークロス・タウンに住み始めてはや数年。彼は月に一度襲ってくる吸血衝動を理性で抑え込み、やり過ごせるようになっていた。ハンターの情報をくれるミーナや、この街に住み、人を襲わずにいる他のヴァンパイア達に迷惑をかけたくはなかったし、何よりもレイ自身がこの街の暮らしを気に入っていた為だ。他の街では長く住むことは出来なかったが、ハンターを襲って血を得ることも出来たし、デビィの為にハンターの腕を奪うことも出来た。だが、この街ではそれは出来ない。ましてやデビィが食人衝動を抑えることが苦にならなくなっているのに、自分が努力しないなんてことは許されない。
「とにかく目を覚ましてもらわないとね」
レイはいきなりダニエルの胸倉を掴んで上半身を引き起こすと頬を平手打ちにした。顔をしかめ、うめき声をあげながらダニエルがゆっくりと目を開いた。
「……ここは何処だ?……いったい何が起きたんだ?」
「駐車場ですよ、ダニエル。あなたの連れの女性があなたの血を吸っていたんです」
ダニエルは自分の首筋に恐る恐る手を伸ばして牙の跡を確かめた。
「ああ……思い出した。そうだよ。あの女、いきなり首に噛みついてきたんだ。物凄い力だったよ。ひょっとして君が助けてくれたのか」
「ええ。立てますか?」
「ああ、どうにかね。ええっと、そちらの方は?」
「俺の友人です。彼と二人でこのホテルの前をたまたま通りかかった時に、あなたの悲鳴が聞こえたんです」
デビィはちょっと照れくさそうに頭を掻いた。
「デビィです。よろしく、ダニエル」
「ああ。こちらこそ、デビィ。君達にはお礼をしなくちゃな。で、あの女は?」
「逃げました。詳しい話は後で。とにかく部屋に行きましょう」