最終章 白い渦と残響
噴水跡の縁に腰かけた蓮の耳元で、オルゴールがふっと鳴る。今度は旋律の合間に、妹の声がはっきりと混じっていた。
——あの時、怖かった。でもね、もう怖くない。
蓮は問い返す。「お前は出たいのか、それとも…ここに残りたいのか」
一瞬の沈黙の後、妹は答えない。代わりにオルゴールの蓋が自ら開き、ゼンマイの奥から白い光が立ち上る。その光は観覧車の方角を真っ直ぐ指し示していた。
その時だった。妹の声とは違う、低くゆっくりとした響きが耳に割り込んだ。
…鍵は、持ち主に縫い付く。
妹はその声を聞いていないらしく、ただ観覧車の影を見つめている。蓮は胸ポケットに触れ、オルゴールの鼓動を確かめた。
潮風塔の記録と妹の声を頼りに、蓮は“完全な円環切断”の手順を組み立てる。欠番を現実へ呼び出し、器の中の魂を顕現させる。鍵はチケットと妹の旋律。観覧車の主軸を物理的に破断し、時間の輪を崩す。そして、案内人との接触で器と魂を分離する。
その記録の端に、かすれた文字があった。
案内人は、器の外から来た者でなければならない。
意味は掴めないが、蓮の胸に重く沈みこんだ。(…妹を出すには、この世界の外から来た俺が座に入るしかない——)
暗がりから現れたのは、螺旋の角を持つ白い影。ユニコーンは軸の表面に影絵のように投影され、低く告げる。
その針を動かせば、円環は壊れる。だが…器はひび割れ、声は零れる。
影は蓮の足元へと伸び、冷たい鎖の感触を残して消える。
おまえは声を抱えて輪をくぐった。だから器は、おまえを覚えている。
妹の声が重なる。
壊して…でも、全部じゃなくていいから。
蓮が制御盤に手を伸ばすと、配管から潮水のような“記憶の映像”が溢れる。妹が笑う昼下がり、事故直前の観覧車の揺れ——断片が床に溶けて消えた。
ふと、自分の影がわずかに遅れて動いていることに気づく。その胸元にはオルゴールの形が浮かび、歯車が勝手に回っていた。影を振り切るように、蓮は軸へとじりじり近づく。
蓮はチケットを裂き、軸に押し当てた。白い火花が弾け、配管の“記憶の水”が逆流する。妹の声が渦に巻き込まれた。
地上で悲鳴のような金属音。モニターには、存在しなかった27番ゴンドラが浮かび上がる。窓の向こうに妹の姿。
…おにいちゃん!
呼び声が地下まで届く。
器はひび割れた。満たすには同じ重さの座がひとつ要る。
時計は3:26:55。蓮はその言葉を胸の奥で反芻する。(ここで俺が座に入れば、妹は外へ戻れる。戻せるのは…俺だけだ) 胸が焼ける。喉の奥で息がつかえ、全身が拒む。それでも視線を外さず妹を見つめた。
「……これでいい」
蓮はオルゴールのゼンマイを逆に回し切った。旋律が絶え、軸が最後の心臓音を放つ。白い渦が二人を包み、オルゴールは光となって妹の胸に吸い込まれた。しかしその瞬間、蓮の胸ポケットにも淡い影のようなオルゴールが形を取り、ゆっくりとゼンマイを巻き上げ始める。裂けたチケットの半片もまた、風のように舞って彼女のポケットへ滑り込む。
3:27:00——軸が裂け、観覧車が静止。輪郭が反転し、妹は観覧車の外へ、蓮は27番の座席へ。外の声は届かず、ユニコーンがゆっくり頷く。
均衡だ。鍵は座に留まる。
外景は事故当日の昼の園に変わり、同じ笑い声が繰り返される。蓮の胸ポケットで、もう主を変えたはずのオルゴールが、自動で巻き上がり、輪の始まりを告げた。
夜明け。門の外に立つ妹は、胸に抱いたオルゴールの温もりを感じていた。園の輪郭は朝靄に溶け、南京錠が自ら“カチリ”と閉じる。
妹は耳を澄まし、遠くの旋律に気づく。
…ごめん、思い出せないや。
その言葉には、痛みよりも安堵が滲んでいた。通りに出た妹のポケットには、兄が持っていたチケットの半片。彼女はそれを握りしめ、ひとつ深呼吸をする。
園の奥で観覧車が回り出す。27番には白い影——蓮が座り、外を見つめている。波音に混じり、微かな声が届く。
……見たものを、信じて。
妹は振り返らず、朝日の中へ歩み続けた。白い螺旋が一瞬だけ空に灯り、すぐ消えた。