第一章 欠番の証
紙の束は、長く閉ざされた空気を吸い込み、海の湿りと鉄の匂いを纏っていた。
蓮は作業台にそれを置き、くすんだ表紙をそっとめくる。
記録帳の中は、細い万年筆の文字でびっしりと埋められている。
数字の列は淡々と続く――25、26……空白……28、29。
その一行だけ、紙の繊維が爪で裂かれたように毛羽立ち、インクの滲みはそこだけ異様に濃い。
削り消そうとしたのか、あるいは何かが書きかけの文字を飲み込んだのか。
蓮はそこから目を離せなかった。妹の乗車チケットと同じ「27」という番号が、脳裏にじりじりと浮かび上がってくる。
記録帳を胸に抱え、蓮は外へ出た。
夜の遊園地は、死んだ獣の骨格のように沈黙している。
ゲートの錆びた鉄格子には蔦が絡み、舗道のタイルは割れ、ところどころ草に覆われていた。
遠くのメリーゴーランドは木馬の首が折れ、風に揺れてかすかな軋みを立てる。
アトラクションの看板は色を失い、文字の半分は剥がれ落ちて判読できない。
霧の奥で、観覧車はじっと動きを止めていた。
蓮が近づくにつれ、足元の地面がわずかに震えたような気がした。
風向きが変わり、潮の匂いが濃くなる。
空気が張り詰め、耳の奥で何かが“待っている”ような気配がした。
歩を進め、26番のゴンドラを視界に捉えたとき、
その隣は――闇。
番号も形も飲み込まれ、黒い空間だけが揺らいでいる。
さらに一歩、二歩と近づいた瞬間、
誰も触れていないはずの軸の奥から、低い唸りが湧き上がった。
金属がきしむ音とともに、観覧車全体が長い呼吸のような速度でわずかに回り出す。
壊れたはずの遊具が命を得たかのような動きに、蓮は一瞬、足を止めた。
蓮は思わず後ずさった。
心臓が一拍、強く脈打つ。
何かが呼んでいる――そんな感覚が背筋を這い上がる。
だが、足は動かない。
逃げる理由も、進む理由も、どちらも曖昧で、ただその場に縫い止められたようだった。
27番のゴンドラは、まるで蓮を待っていたかのように、静かに揺れている。
蓮は足をかける直前、一度、視線を外した。
ゴンドラの内部は暗く、奥まで見通せない。
まるで何かが潜んでいるような気配が、空気の隙間から漏れていた。
「本当に乗るのか?」
心の声が問いかける。
だが、美緒の記憶がその問いを押し潰す。
蓮は唇を噛み、震える指先で手すりを掴んだ。
一歩、また一歩。
覚悟というより、諦めに近い感情が背中を押した。
板が水を踏んだようにたわみ、冷たい空気が足元から這い上がる。
遠くからオルゴールの旋律が聞こえ、妹の声が重なった。
「……お兄ちゃん? お兄ちゃんなの?」
声は、霧の奥からそっと届いた。
「探しに来てくれたんだね……ありがとう。」
その言葉には、驚きと安堵、そして少しだけ寂しさが混ざっていた。
蓮は息を呑んだ。
ずっと探していた。
耳に届いた瞬間、蓮は思わず息を呑んだ。
それは確かに美緒の声だった。けれど、現実の空気を震わせた音とは思えなかった。
音の輪郭が曖昧で、まるで脳内で再生された記憶の断片のようだった。
半年前、最後に交わした言葉――その残響が、蓮の中で何度も繰り返されていた。
今の声は、それと寸分違わぬ響きだった。
まるで、時間の底に沈んでいた声が、ふいに浮かび上がってきたような錯覚。
現実が揺らぎ、過去と現在の境界が曖昧になる。
蓮は耳を澄ませた。だが、もう何も聞こえなかった。
沈黙。
軋む鉄骨と遠いオルゴールだけが返事をする。
その笑いは、美緒の安堵の笑い声のように聞こえたが、どこか遠く、まるで違う場所から響いているようにも感じられた。
それでも蓮は、次の瞬間、彼女が笑っているような気がした。
ゴンドラがゆっくりと上昇を始める。
窓の外では、朽ちた遊具が一瞬にして輝きを取り戻し、賑わいと笑い声が満ちていく――過去の光景だ。
蓮は気づかない。
ガラスの向こう、過去の喧騒に目を奪われている蓮の横で、窓ガラスに一瞬だけ、白い息のようなものが付着した。
それはすぐに消え、波紋のように形を崩した。