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第七話 名前を呼ばれて


 ──ミオ。


 それは、ひとつの名前だった。

 けれど、たったそれだけのことが、こんなにも胸を締めつけるなんて。


 澪は机に肘をつき、何度目かもわからない音声を、イヤホン越しに聴いていた。

 ひそやかで、ゆっくりとした異国の発音。

 けれど、確かにそれは、日本語の「ミオ」という音をなぞっていた。


 「……ミオ」


 自分の声で、自分の名前をつぶやいてみる。

 耳が熱い。心臓が早い。


 ──どうして、泣きそうになるんだろう。


 彼の声は、優しかった。

 緊張していたのか、ほんの少しだけかすれていて。けれどその分、丁寧に、大切に、発音しようとしてくれているのが伝わってきた。


 まるで、名前の奥にいる「自分自身」までも、きちんと見てくれているようで。


 「……やめてよ、そんなの」


 ぽつりとこぼした声が、部屋の中でやけに響く。


 どこの誰ともわからない。

 どんな顔かも知らない。

 王子だっていうのも、夢みたいな話で……なのに。


 ──声を聞いてしまった。


 その声が、こんなにも、自分の中の何かを揺さぶってしまった。


 澪は手を伸ばし、机の上に置かれたボイスレコーダーに触れた。

 この小さな銀色の道具が、自分の心をこんなにかき乱すなんて、思ってもいなかった。


 「声を聞いたら、きっと、少し安心できると思ってたのに……」


 澪は目を伏せ、こつんとレコーダーに額を寄せた。

 ──違った。

 安心なんかじゃない。もっと厄介で、甘くて、どうしようもないものが、胸の奥で暴れている。


 (知らなきゃよかった、なんて、思わないけど)


 知ってしまったことには、もう戻れない。

 これまでの文通は、どこか夢のようだった。画面越しのドラマを見るみたいに、少し他人事で、少し安全で。

 でも──声を聞いてしまった。

 それは、彼が本当に「ここにいる」と知ってしまったことだった。


 ──それに、もうひとつ。


 レコーダーには、もうひとつ音声が入っていた。彼の名前だった。


 「……カイル、です」


 発音ははっきりしていた。

 ただの文字列ではない。誰かの、存在の重みそのものだった。


 「カイル……」


 澪はその名前を、そっと口の中で転がしてみる。

 不思議な名前。でも、なぜかしっくりくる。彼の声や手紙の文体に、よく似合っていた。


 ──声を聞いて、名前を知って。

 相手の姿はまだ知らないはずなのに、心の中で彼の存在は、ぐっと近くなっていた。


 「……バカみたい」


 ぽろりと涙がこぼれて、レコーダーの銀色の表面に、静かに落ちた。

 誰かに触れたくて、でも触れられなくて。

 遠すぎる、でも、誰よりも近い。



 「ミオ! こっちこっち!」


 大学のカフェテリアで、澪を見つけた奈々が手を振る。

 少し腫れた目をごまかしながら、澪は席に着いた。


 「どうしたの、その顔……泣いてた?」


 「泣いてないよ。……ちょっと寝不足なだけ」


 奈々はじっと澪を見て、深くは追及せずカップを差し出した。

 「ねえ、例の彼、声、届いたんでしょ?」


 「……うん。届いた」


 「で、どうだった?」


 澪は少し考えてから、ぽつりとつぶやいた。


 「名前……呼ばれた。ちゃんと、“ミオ”って。……あと、自分の名前も、言ってた。“カイル”だって」


 「──っ!」


 奈々は目を見開いて、テーブルをバンッと叩いた。


 「はい、こりゃ完全に落ちてますわ。王子様、ミオに夢中。『王族史上、最も純度の高い恋心』って感じ」


 「なにそれ……変なキャッチコピーつけないでよ」


 苦笑しながらも、澪の頬はふわりと赤くなる。



 夜。自室に戻った澪は、机の上にレコーダーを置き、深く息をついた。


 まだ、答えは出ていなかった。

 何を伝えたいのか、どう伝えればいいのか。

 名前を呼ばれただけで、名前を知っただけで、こんなに胸がいっぱいになるなんて。


 ──でも、私も、声を届けたい。


 その想いだけは、はっきりしていた。


 澪はレコーダーを手に取り、録音ボタンをそっと押した。

 静かな部屋の中、自分の呼吸音だけが聞こえる。


 「……こんにちは。ミオ、です。えっと──ありがとう。私の、名前を呼んでくれて」


 少しだけ、声が震えた。


 「……うれしかった。なんだか、すごく、うれしかった」


 録音を止めるとき、澪の頬には、もう涙は残っていなかった。

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