プロローグ
あの日、私は九歳だった。
夏の日差しがじりじりと焼けるように強くて、けれど海風は思ったよりも優しかった。
砂浜には、誰もいなかった。遠くでカモメが鳴いて、波が小さな貝殻をいくつも巻き上げていた。
足元の砂はさらさらとしていて、素足にまとわりつく感じがくすぐったい。潮の香りが鼻をくすぐり、風の音と一緒に波の音が寄せては返していた。
私は、誰にも見られないようにこっそりと、ボトルを抱えて海のほうへと歩いた。
その瓶は、朝からずっとランドセルの中に入れていた。給食の時間も、掃除の時間も、ずっと気になって仕方がなかった。
中には、両親に撮ってもらった写真──ドーナツを頬張って笑っている、少し間の抜けた自分の顔。
最初は運動会の写真にしようかと思っていたけれど、笑っているものの方がいい気がして、迷った末にこれを選んだ。
そして、色鉛筆でカラフルに書いた一枚の手紙。
『こんにちは。わたしは、みおっていいます。』
『どこかのくにの、だれかに このてがみが とどきますように。』
『わたしは 本をよむのがすきです。』
お姫様が外国の子どもと文通をする本を読んだのがきっかけだった。
私も、どこか知らない場所にいる誰かと、お友だちになってみたかった。
でも、本当のことを言えば──
ちょっぴり、寂しかったのだと思う。
教室では本を読むのが好きだったけど、それは静かだからじゃなくて、誰とどう話していいのか分からなかったから。
同じクラスの子たちとうまく馴染めなかったことや、家にいる時間がひとりきりだったこと。
誰にも言えなかった気持ちを、誰かに届くかもしれない“瓶”に託した。
「とどきますように」
小さくつぶやいて、瓶をそっと海へ放った。
波に揺れながら、透明なボトルはゆっくりと遠ざかっていく。
どこかの国の海にたどり着いて、きれいな貝殻のそばに打ち上げられて、誰かが拾ってくれる──そんな空想が、胸の奥で静かに膨らんだ。
空は、まぶしいほどに青かった。
あのときの私は、まさか本当に届くなんて、思っていなかった。
まさか──あんな遠く、世界を越えた場所にまで。