act1.深紅の爪
この国のお姫様は、生まれた時から長くて鋭い爪を持っていた。母親であるお妃様のお腹にいる時から、それは悪さをしていて、生まれ出る時も傷つけてしまい、その時の傷が原因で、お妃様は亡くなってしまった。物心ついた頃に、自分は他の人とは違うということに気づいてしまい、心とは裏腹に傷つけてしまう爪に、真っ赤なマニキュアを塗って、部屋にこもって過ごしていた。一人娘を愛したい王様すらも近づけず、必要なものがあれば扉の外にいる使用人に伝えて持ってこさせた。そうやって持ってこさせたものは、扉の外に置いてもらい、使用人は"合図"があるまで、見えない場所で待機することが決まりだった。
「いたっ…!」
また、だ。腕に、一筋の赤い線が走る。
切っても切っても伸びてくる、爪。少しでも触れれば、傷がつく。根本から剥がしてみたこともあったが、痛くて手が血まみれになるだけで、痛みが引く頃には次の爪が生えてくるのだ。
(赤だ…。)
ぷくっと浮き出る血を見つめて、ホッとする自分がいる。
物心ついた頃から、自分は人外の化け物だと思っていた。長くて鋭い爪は、細心の注意を払っていても、あたたかい家族を、優しい手を、自分ですらも、傷つけてしまう。自分に流れている血は緑や青なんじゃないか、という不安が、常に心の中で渦を巻いていて、一時期、自傷行為を繰り返していた。流れていく血の色が赤であることを確かめては、安堵していたのだ。ある時、扉の前に一つの赤いマニキュアが置かれていて、まるで、"戒めにこの爪を赤く塗れ"と言われているような脅迫概念に囚われて抜け出せず、それ以降、自分の爪を赤く塗り続けている。
城とは繋がっているものの、端の塔の一番上に位置するこの部屋は、朝は一番に日が入り、日がかげるのも一番早い。一人でいるには丁度いい広さで、こもるにはもってこいの部屋だ。この部屋で、日々、死んだように生きている。
生きている価値なんて、自分にはないと思っている。でも、自ら命を断つことも、誰かに殺してもらうのも、出来ないでいる臆病者。
(…お腹減った。)
時計を見ると、お昼に差し掛かるところ。ゆっくりと立ち上がり、唯一の扉の前に立ち、こんこん、と軽く叩く。
「お昼を持ってきて。」
「………。」
顔も名前も知らない誰かが、返事もせずに動いていく音がする。扉の前で待っていると、いい匂いが近づいてきて、かたり、と扉の外側にトレーを置く音、そして、こんこん、と軽く叩く音。
「いいわ。あとは、いつものように。」
そういうや否や、扉の外側から人の気配が消えた。
鍵を開けて、扉を少しだけ開けると、その隙間から辺りを見渡した。…誰もいない。慎重にトレーを回収して、一旦扉を閉める。自室のテーブルにトレーを置いたら、もう一度扉の前に行き、少しの隙間を開けて、呼び鈴を一振り。ちりんちりん、と、澄み切った音が響き渡ると、扉を閉めて、鍵もかける。そうして、しばらくすると、扉の外側に人の気配が戻る。
もう何年も、同じことを繰り返している。だからなのか、使用人としか認識していない扉の外側のその人は、自分の要求に流れるように対応してくれている。ずっと、同じ人、なのだろう。
(お父様に命じられているのね。可哀想に。)
そうやって憐れむことでしか、孤独を紛らわせられない。可哀想なのは、他の誰でもなく、自分なのだから。
静かな時間の中で、音だけが、寄り添ってくれる。食事を手短に済ませ、今度は人払いをしてから扉をトレーの前に置き、呼び鈴で呼び戻してトレーを片付けさせる。
ベッドに腰掛けると、ふぅ、と一息がもれた。目線の先には、赤く塗られて、てらりと光る、爪。この爪さえなければ、その辺の年頃の娘と同じなのに。この爪さえなければ…。
それなのに、こうやって赤いマニキュアを丁寧に、丁寧に、塗る。綺麗に仕上がれば、気持ちが上がる。この爪さえなければ、と思う反面、この爪だけが、自分を証明する唯一無二だと思ってしまう。
(救われないなぁ…。)
ベッドに仰向けに倒れて、天井を仰ぐ。両方の手のひらを上に向けて、まじまじと、爪を眺めていると、今の今まで気にも留めていなかったことが気になり出し、悪戯心が疼いた。顔も声も名前も知らない、扉の外側にいる使用人を、なぜか唐突に、"知りたい"と思ってしまったのだ。
自分の運命が動く時、というのはきっと、こういう衝動にかられた時なのかもしれない。
こんこん。
「ねぇ、お願いがあるんだけど。」
跳ね上がる心臓の音は、警告音なのだろうか。
「扉を開けるから、そのままそこに、いてくれる?」
お姫様は、扉を開ける。扉の外側にいる"誰か"と、"出会う"のだろう。