クリスマスツリーは知っている
1
ラブホテルの前に住んだことはあるだろうか。もし、今借りようとしている部屋がそうなら、いくら家賃が安くても止めたほうがいい。まして、そこが学校や職場の近くなら絶対に止めるべきだ。経験者が語るのだから間違いない。
僕は大学生の時にラブホテルの向かいに建っているアパートに住んでいたことがある。どうしてそんな部屋に住んでいたのかと言えば、お金がなかったからだ。
大学2年生の秋に父親が借金を残して逝った。借金だけは相続を放棄して免れた。
だが大学に通う余裕は無くなり退学をしようとしたら、在学中に親が亡くなり経済的に困窮した学生への授業料免除の特別措置が認められ退学はしないですんだ。
そこで、少しでも生活費を切り詰めるために家賃の安い部屋に引っ越すことになったのだ。
11月のある日、僕は大学の近くにある小さな不動産屋に部屋探しに行った。入り口の手動のガラス戸には手書きの物件のチラシが沢山貼り付けてあり、中に入ると狭い店内には机が一つあるだけで、その机の前には眼鏡をかけたペンギンの様なくたびれた中年男性が座っていた。
さびれた雰囲気だったが、それが逆に当時でも希少になっていた風呂無し木造のボロアパートを扱っているように思えた。
腹の出たペンギン男に「この近くで、できるだけ家賃の安い部屋を探しているんです」と話しかけた。
ペンギン男は、眼鏡をずらして上目遣いに僕のことを見上げると黙って物件のチラシを綴じている分厚いファイルを取り出してなかをめくり始めた。当時でもこうした紙のファイルだけで説明する不動産屋は時代遅れだった。
しばらくすると、一枚のチラシを取り出した。
「この部屋はどうですか」
見ると、まだ築浅の風呂付の6畳のワンルームで、しかも家賃は今住んでいる部屋の半分以下だった。風呂無しアパートに住んでも、銭湯代が毎月結構な金額になるから生活費がそう安く上がるわけではない。風呂付の部屋でその家賃なら申し分なかった。
「本当にこの金額でいいんですか」
ペンギン男は頷いた。
「でもねぇ、駅から歩いて18分かかりますよ」
駅は大学の最寄り駅から数駅先だった。通学には便利だ。徒歩18分というのは何の問題も無い。
「すぐに契約できますか」
「できますけど、内覧はどうします?」
「大丈夫です。いりません」
内覧する必要は無かった。これ以上安い物件はありえない。むしろ内覧をしている間に他の人が先に契約してしまわないかの方が心配だった。
「それなら事前に話しておきますが、実はこの部屋には一つ問題があるんですよ……」
ペンギン男は言葉を濁した。
嫌な予感がした。心霊現象とかがある部屋なのだろうか。
「何か出るんですか?」
恐る恐る訊くと、ペンギン男は笑った。
「幽霊は出ませんよ。ただラブホテルが正面にあるんです」
「それだけ?」
「それだけです」
「それなら問題ないです」
僕はそう言い切るとその場で契約した。お金が無くピンチだった僕にとって部屋の前に建っている建物なんてどうでもいい問題だった。
2
ところが実際に住んでみるとそれはどうでもよい問題ではなかった。
朝の通学の時間帯は、ちょうど泊まったカップルがホテルを出る時間帯と重なった。部屋を出て駅に向かおうとすると、正面の玄関から手をつないだカップルが次々と出てくる。帰りはというと、バイトが終わる終電近くの時間帯が、休憩で帰るカップルがホテルを出る時間帯に重なった。そこで、僕は行きも、帰りもラブホテルから出てゆくカップルと鉢合わせをする生活になった。
別にラブホテルを利用したカップルと出くわすこと自体問題ではない。問題なのは、それが知り合いだったということだ。バイト先の店長、通っている大学の教授と同じゼミ生の女子、さらには家庭教師先の母親にまで遭遇してしまった。皆そのホテルを逢引の場所に使っていたのだ。しかもその多くは不倫関係だった。
最初、彼らは僕のことに気がつかなかった。しかし、何かの拍子に僕のことを認めるようになった。すると、どうしてここで会うのかというけげんな顔をする。
まだ状況がよく認識できていない状態だ。次に、驚き、戸惑い、羞恥、怒り、いろいろな感情が駆け巡る。
しばらくして我に帰ると能面のような表情になり去ってゆく。
問題はその後だ。知り合いのこうした秘めた情事を知ってしまったがために僕は気まずい思いを沢山した。向こうは勝手に僕があちこちで言いふらしていると思い込んで、嫌がらせをしてききた。そのせいで何度かバイトを辞めざるを得なくなった。
また、不倫をしていた女子学生に逃げられた教授に、僕が学内で2人の関係を噂にしたからだと(そんな事実は誓って無いのだが)逆恨みされた。そのお陰か僕はその教授の授業の単位を落とした。
本当にいい迷惑だった。それでも、その部屋よりも家賃が安いところは他には無く、貧乏だった僕は卒業までその部屋に住み続けるしかなかった。
僕は当時、20歳そこそこだったが、その部屋に住んだことで普段接している人に色々な裏の顔があることを知って少々大人になり、さらには少しばかり人間不信にもなった。
3
とある冬の晩のことだ。晴れ渡った星空で底冷えのするクリスマスの季節にそのラブホテルの前で不思議な事件が起きた。
いつものように学業とバイトを終えて、深夜近くに帰ると、30歳くらいの女がホテルの脇の電柱の後ろに隠れるように立っていた。その女は濃い色のサングラスをしてスカーフで頭を覆っていた。その姿はいかにも怪しげだった。
家に帰ってシャワーを浴びた後も僕はホテルの前にいた女のことが気になって仕方なかった。そこで、部屋の電気を消すと、カーテンの隙間からそっと外の様子をうかがった。
女はまだ同じ場所にいた。
ラブホテルの入口に飾ってあるクリスマスツリーの電飾が女の姿を照らしていた。
誰かを待ち伏せしているようだった。電柱の後ろから、ホテルの玄関を凝視している。その姿からは緊迫した空気が伝わってきた。これから何が起こるのだろうかと思うと僕はその女から目が離せなくなった。
しばらくして、男が一人で歩いて出てきた。
その時、女が動いた。女は男の前に出でると、何か言葉を投げかけ、口論が始まった。そして女は鞄から光るものを取り出した。
刃物だった。
女は刃物を向けると男に向かって飛び込んでゆく。
僕は思わず「ワー」と大声で叫んだ。
女は振り向くと声のした方に目線を向けた。窓越しに女と目が合ってしまった。僕は反射的にカーテンを閉じると、すぐに110番通報をした。そして、女と目を合わせるのが恐ろしくて、カーテンを閉めたまま、その場にうずくまり警察の到着を待った。
たまたま近くをパトカーが巡回していたのか、通報してからわずか数分でパトカーの赤色灯の光がカーテン越しに映った。
パトカーが到着すると僕はアパートの外に出た。
ホテルの前に人影はなかった。
死体も転がっていない。
パトカーから降りてきた警察官に通報者であることを告げて、目撃したことを話した。その後すぐに応援の警察車両が来て、あたりは騒然となった。警察官は僕の供述に基づき付近を捜索し始めた。
しかし、目撃した男女2人組みはおらず、またホテルの前の道路にも血痕らしいものはなかった。警察官はホテルの中も調べたが、ホテル内にも該当するような怪しい人物はいないとのことだった。
警察官は寝ぼけて夢でもみていたのではないかと詰問したが、僕ははっきりとこの目で見たと主張した。だが結局、血痕も凶器も死体も不審者も見つからなかった。僕は調書をパトカーの中で取られた上に、警官から人騒がせだと説教された。警察は僕が寝ぼけていたか、いたずらではないかと疑っていた様子だった。
あれから何年も経つが未だに納得がいかない。間違いなく、待ち伏せをしていた女はいた。刺された男もいた。それが、警察に通報し、最初のパトカーが到着するまでのわずか数分間の間に、忽然と消えてしまったのだ。ちなみに、付近は畑や駐車場ばかりで隠れられるような場所はない。その場から逃げても付近にいたパトカーがすぐに現場に来ているので不審者がいれば見つかっていたはずだ。
僕は今でも2人が何処に消えたのか不思議に思う。
冬の星空のもとに起きたミステリーだ。
すべてを目撃していたのは、ラブホテルの前のクリスマスツリーだけだった。
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