第99話 祖父の許可
杏子と栞代に連れられ、拓哉コーチは杏子の自宅に到着した。
「栞代さんは、何度も来ているのかい?」
「ああ、杏子の家の方が、もしかしたら自宅よりも長いかもしれないな」
「おじいちゃんとも仲いいしね」
「え? 杏子よしてくれよ。杏子の負担が減るようにオレはだなあ・・・」
「ふふ」
自宅ではあるが、コーチと一緒だということで、呼び鈴を鳴らして、玄関を開ける。
祖母が出迎えてくれた。
「コーチ、ご無沙汰しております。本日はようこそ、いらっしゃいました」
祖母が挨拶をし、コーチも丁寧な挨拶を返す。栞代がすかさず、
「おばあちゃん、おじいちゃんの様子はどう?」
「うん。すごく安定してて、特に問題ないみたいね。」
「コーチに対してはどう?」
「ふふ。コーチが、杏子ちゃんをお嫁にくださいって言わない限りは、何を聞いても大丈夫よ」
「ちょ、ちょ、とおばあちゃんっっっ」
珍しくおばあちゃんが軽口を言って驚いたが、内容にはもっと驚いた。
栞代が豪快に笑い
「その時も、オレ、絶対見たいな~」
と返したが、コーチはうろたえてばかりだった。
「ああ、栞代、コーチ、いらっしゃい。今日はお話がある、ということじゃったが。ぱみゅ子は若いから嫁には出さんし、たとえ年取っても出さんし、永遠に出さんし、絶対に出さんぞ」
と、今までの会話を聞いていたかのような唐突な挨拶をした。
杏子はこういう時の対応はもう慣れたもので、
「おじいちゃん、紅茶の用意はしていないの?」
と、まるで意に介せず、話を変えた。
「いや、今のは冗談じゃが、一応、話の内容によって、おもてなしを変えようかと思ってな」
と言うと、祖母が
「またそんなこと言って。ちゃんと用意してあるのよ」
と言って、それぞれに紅茶を持ってきた。
香りが部屋に漂う。
「コーチ、おじいちゃんの紅茶は本物だから、ちょっと飲んでみなよ」
栞代が勧めると、コーチは、それでは、と言って口をつけた。
「お。確かにこれは美味しいですね。私はコーヒー党なのですが、党派替えを考えますね」
と表情を崩した。
「おじいちゃん、今日はちょっと大事な話があるんだ。」
杏子が緊張した様子で切り出すと、祖父は背筋を伸ばした。
「拓哉コーチ、わざわざ訪ねてきてくださったんだ。なにか重要なことなんじゃろう? 聞こうじゃないか。」
真剣な目で拓哉コーチを見つめると、拓哉コーチは深々と頭を下げた。
「おじいさん、今日はお願いがあって参りました。実は、私の実家の樹神神社で来月行われる『御的初の儀』という特別な神事に、杏子さんに参加してほしいのです。」
その言葉を聞いた祖父は、単純な問いを口にした。
「『御的初の儀』? なんなんだい、それは」
そして、拓哉コーチは、大まかに説明した。そして今年は60年に一度の大和矢祭にあたること、自分に繋がりのある人を選ぶ必要があること、を話した。そして、
「実はこうした実家の神事については、私自身、強制されたいたこともあり、一度は、反発し、拒否し、その流れで弓も辞めたことがあります。
その後、いろんな方との出会いがあり、好きな弓からもう一度取り組み、落ち着いて実家の神事の意味を考えました。
自賛になりますが、男系優位であった日本の神事の中で、私の実家である樹神神社は、調和を第一とし、女性も男性と同様に、いえ、男性以上の存在として、敬っております。
実際に女性が神事に参加するのは、12年に一度、そして最も輝くのが60年に一度の大和矢祭しかない、というのは逆の意味から考えると、いろんな評判をも考慮しての配慮ではあったかと思いますが、同時に、それだけの重みもある儀式です。
女性巫女として、弓を引いていただく必要があることから、弓の経験は必須ですが、また、その中でも、あてる弓を引かない、ということがこの神事に参加する弓士の条件である、と私は考えます。
あたるかどうかは、その時の神のご意志なのです。
弓道部という制約の中では、もちろん違う表現を使いますが、この神事に相応しいのは、まさに杏子さん、そして瑠月さん、栞代さんであると思っています。
いろんな女性弓士と知り合い、実力のある方も大勢いらっしゃいました。的にあてるだけなら、より相応しい方もいらっしゃると思います。
しかし、杏子さんの結果に拘らない弓を、本当の意味で引ける人は居ませんし、また、その杏子さんの側で杏子さんの弓を見ている二人にも、その気持ちは伝播しております。
この大和矢祭を前にして、杏子さんと巡り合ったこと、そのことが神のご意志のように思えるのです。
おじいさん、よろしくお願いいたします」
「えらい熱弁やったのう。それにえらい買いかぶりじゃないか。神事は重いぞ。杏子にそんな大役を背負わせるのは心配じゃ」
「おじいちゃん……」
杏子が口を開こうとするが、その前に栞代が話に割って入った。
「おじいちゃん、オレも杏子が参加するなら、絶対に一緒に行くよ。瑠月さんも、杏子が行くならって言ってたけど、本当は杏子の側に付いていたいと思ってる。当然私も杏子を一人にするつもりはない。万が一外しても、たとえ相手が神様だって、オレは杏子を守る」
祖父は、栞代の言葉に目を細め、上を向いてしばらく動かなかった。涙を堪えているようにも思えた。
「杏子、本当にいい友達を持ったな。」
「だろ?」
栞代がちゃかしたように返すと、祖父はすぐに
「やっぱり素晴らしいおじいちゃんの孫だから、当然ぱみゅ子は優しくて素晴らしい。類は友を呼ぶ、じゃな」
と言い返して笑わせた。
「それで、ぱみゅ子はどう思っているんじゃ?コーチや栞代の思いはよく分かった。だが、お前自身がどうしたいのかが一番大事だからな」
祖父の問いに、杏子は一瞬目を伏せた。しかし、すぐに顔を上げ、その目には真剣な光が宿っていた。
「……おじいちゃん。最初はすごく悩んだ。神事の巫女なんて大役、私にできるのかって。でも、拓哉コーチが、気持ちだけでいいって。それなら、今まで私がおばあちゃんから教えてもらったことと同じ。姿勢だけを気にすればいいって。それなら、私もやってみたい。神事に関わることは大きな経験になると思うし、自分の弓道をもっと深められる気がするんだ。」
杏子の言葉に、祖父は静かに目を閉じた。しばらく考え込むようにしていたが、やがて再び目を開き、優しく微笑んだ。
「そうか。お前がそこまで考えているなら、わしは止めない。ただし、くれぐれも無理をしないこと。それは約束してくれ」
「……うん!ありがとう、おじいちゃん!」
杏子は目を輝かせながら、おじいちゃんの手を握った。
「ありがとうございます。」
拓哉コーチも頭を下げる。その姿を見て、祖父は笑みを浮かべた。
「拓哉コーチ、わしの孫を頼む。
ところで、わしも付いて言っていいのかなのう?」
「もちろんです。」
「じゃあ、杏子、やるからには、全力でな。心配はいらん。わしも付いとる」
と言って、祖父は豪快に笑った。
そして、これはまた特別な紅茶じゃ、と言って、別の紅茶を持ってきた。
それはまた本当に美味しかった。
最後にコーチが付け足すように
「本来、あたるか外れるかは、神様のご意志なので、弓士には全く関係ありません。だが、人間である観衆の中には、外れた時に不満の声をあげるものも出てくるのでしょう。そんな時は、宮司の跡取りとしての私が全力でお守りします。
だからこそ、私の縁のあるものにお願いしたいというのもあるんですよ」
と言った。
祖父はそれを聞き、
「一番肝心かもしれんことを聞き忘れた。日時はいつじゃ?」
「春分の日です。
自然との調和の観点から、春分の日は、昼と夜の長さが等しくなる日であり、古来より自然との調和を象徴する節目の日とされています。この日は、春の訪れを祝うとともに、新たな生命の息吹を感じる特別な時期とされています。
冬を越え、新しい季節の到来に際して、地域の人々が健康や豊穣、平和を願うのにふさわしい日です。「御的初の儀」も、この再生のエネルギーを祝う重要な神事として行われます。厄災払いと再生の祈りなんです。
弓道の神事は、五穀豊穣を祈るものが多く、農耕の始まりに重なる時期に行われることがしばしばあります。3月中旬から下旬は田畑の準備が始まる季節であり、土地の厄を払い、良い実りを願う意味で非常に適しています。
60年に一度の「大和矢祭」の場合、「干支の還暦」を祝う意味も加わります。この周期においても春分の日は、「陰陽が調和し、新しいサイクルが始まる日」として重要な象徴となります。祭典の日付が春分の日に重なることで、地域の伝統と自然の節目を結びつけることができます」
「オレ、今までコーチは無口の方だと思ってた。多分この一年で聞いたコーチの指示より、今日一日のコーチのセリフの方が分量多いぜ」
「いや、実はおじいさんを説得するために、昨日からずっと暗記したんだ。せっかく暗記したんだから、全部披露したいじゃないか」
「わしが紅茶を披露したいのと同じかな?」
「それにしても、春分の日とはすぐじゃな」
「はい。特別なことなので、緊張は短く、と思いまして」
コーチと祖父がとりあえずは打ち解けているのを見て、それが一番の収穫かもしれないな、と杏子は思った。




