第97話 御的初の儀(みまとはじめのぎ)
その日、拓哉コーチが杏子と瑠月、そして栞代を呼び出したのは、練習が終わりかけた静かな時間帯だった。道場には夕日が差し込み、橙色の光が床に長く影を落としている。
「二人とも、少し時間をもらえるか? 栞代さんは、二人の付き添いとして話を聞いて欲しい」」
拓哉コーチの落ち着いた声に、三人は練習用の弓を手に立ち止まった。
「何でしょう、コーチ?」瑠月が首をかしげる。
「少し話がある。部活とは関係ないんだが。わたしにとっては重要なことなので、少し話を聞いて欲しい」
その表情がいつになく真剣だったため、杏子と瑠月、そして栞代は静かに頷き、道場の隅に並んで座った。拓哉コーチは道着の襟を正しながら三人の前に立ち、深呼吸を一つして切り出した。
「今年、私の実家である樹神神社で、とても重要な神事が行われる。『御的初の儀』(みまとはじめのぎ)といって、厄災を祓い、地域の平和と豊穣を祈願する伝統行事だ。私は、その神事で流鏑馬の射手を務めることになっている」
「流鏑馬ですか……!」瑠月が目を丸くする。
拓哉はしばらく黙ったまま二人を見つめ、深呼吸をするとゆっくり口を開いた。
「今年の『御的初の儀』は、60年に一度の特別なもので、実家、樹神神社に、杏子さんと瑠月さん、そして栞代さんに来てもらいたいんだ。」
「えっ?」瑠月が驚いたように声を上げる。隣で杏子も目を見開いていた。
「樹神神社では、特別な年にだけ『御的初の儀』っていう神事が行われる。さらにその中でも、今年は60年に一度の年になる。弓を使った奉納の儀式だ」
拓哉は言葉を選びながら、儀式の概要を説明した。流鏑馬による厄災祓いの後、巫女が一射ずつ矢を放つ。その巫女役として参加して欲しいのだという。
「巫女……私たちが?」瑠月が慎重に言葉を探すように尋ねた。
「ああ。神社に縁のあるものの参加が望まれているんだ。君たちは、私の子弟だからな」
「冴子さんと沙月さんにまず話をさせて貰ったんだが、タイミングが合わなくてな。
もちろんこれは、お願いだ。強制ではない。もともとそんなことはできないし、断ってもらってもなんの問題もない」
杏子は目を伏せ、言葉に詰まった。その隣で瑠月が口を開く。
「でもコーチ、そんな大事な役を私たちが務めていいんですか?私たちは、まだまだ未熟です。」
「そうです。それに、的中が必要なんですよね?」杏子も不安そうに続ける。
拓哉は静かに頷いた。二人の戸惑いは理解できる。
「神事だから、普段とは勝手が違うが、いつもと同じように、当てようとせず無心で弓を引けばいい。いや、むしろ、当てようとしない方がいいんだ。あたるかどうかは、神様が決めることだから。
杏子さんがいつも言ってる、あたるかどうかは結果なだけ、を高尚に言い換えただけなんだけどな」
と言ってコーチは笑う。
「いつも、あたるかどうかは気にするなといいつつ、試合としては結果を求められるんだが、今回は本当に姿勢だけを考えていいんだ。だから、当てないと、というプレッシャーを感じる必要はない」
「とはいっても、神事であり、当日はかなりの人の前で引かなければならない。それは確かにプレッシャーだけどな。次は三人にお願いする、ということを知って、冴子さんも沙月さんもそこは申し訳ないって」
「実は私は実家とはいろいろとあって、一旦逃げたんだ。だから前回の神事には参加していない。
紆余曲折があって、今回は、できるところまではしたい。そう思ってる。
断った場合は、地元の有志が勤める。断って貰っても、神事自体に影響はない。引き受けることにプレッシャーを感じる必要は全くない。
この結果もまた、神様の思し召し、というところかな」
拓哉はそう言って笑った。
瑠月はしばらく沈黙していたが、やがて息を吐き、顔を上げた。
「……杏子ちゃんが参加するなら、私もやります。一人じゃ怖いけど、杏子ちゃんと一緒なら……」
杏子は驚いたように瑠月を見たが、すぐにまた目を伏せた。そして、そっと拓哉を見つめる。
「私も、瑠月さんと一緒にできるなら……でも、おじいちゃんの許可が必要です。おじいちゃんに話して、認めてもらえたら……」
「栞代さんは?」
「わたしは、杏子の行くところはどこでも行くよ」
「わかった」拓哉は少し微笑んだ。「おじいさんには、直接、私からもお願いする。
話はまずはそれからだな。」
「ところで、この三人の内訳、だれが控えになるのか、決めてるんですか」
栞代が尋ねると、拓哉コーチは、
「胸の中にはある。だが、現地で実際に巫女の衣装を身につけ、特別な弓と矢を使うことになるので、実際にそれを身につけて試してから決めて貰えればいい。一人は控えになるのが心苦しいが、控えと言っても、奥にひっこんでいるのではなく、一射めが外れたら、すぐに次の矢を放たなければならない、重要な役目なんだ」
杏子と瑠月、そして栞代は視線を交わし、それぞれ小さく頷いた。三人の心にはまだ不安が残っていたが、拓哉の言葉が確かに響いていた。




