第90話 三年生の引退式
2月の終わりの午後、静かな冬の陽射しが弓道場を柔らかく照らしていた。この日は三年生の引退式だった。といっても、部内のささやかな行事で、三年生が高校生活最後の4射を引くだけのものだ。それでも、花音にとってこの場は特別だった。
「こんな形で三年生全員が揃う引退式を迎えられるなんて、本当に幸せなことだわ。」
花音はそう思いながら、控えめな笑みを浮かべていた。
引退式は、光田高校弓道部の小さな伝統だった。部がだらけていた時期にも、この行事を続けてきた数少ない真面目な部員たちのおかげで、今日まで受け継がれている。去年までは寂しいもので、卒業生全員が参加するなんてとても考えられなかった。一人、二人、の式だった。だが、今年は違う。三年生全員が揃い、後輩たちに見守られながらの引退式だ。
この引退式を後輩に渡すことが出来たことは、本当に良かったと花音は思った。
三年生たちが順に弓を構え、最後の4射を引く。静まり返った道場に、矢が的を射る音が響き渡る。ひとりひとりがこの4射に特別な思いを込めていた。
「この場に立てることが、どれだけありがたいことか……。」
花音は矢を番えながら、過去の記憶を思い返していた。今年のインターハイでは、後輩たちが勝ち取った出場権だったが、我が儘を通し、全国大会、団体戦でベスト32に進出した。個人戦では、つぐみが準優勝。つぐみは引っ越してしまったけれど、光田高校の名前で勝ち取ったその栄誉は誇らしかった。
さらに、ブロック大会では団体・個人の完全制覇。
そして、練習試合ではあったが、ここ数年、全国で敵無し、負け知らずの鳳城高校に初勝利。この時の、杏子、瑠月、つぐみが揃って達成した快挙は、公式戦ではないにせよ、光田高校弓道部の歴史に刻まれるものだ。
選抜大会でも、杏子とつぐみという両エースを欠きながら、団体戦で全国3位に輝き、個人戦では瑠月が4位に入った。あのとき、両エースを欠きながらも光田高校の底力を見せつけた部員たちがいたからこそ、この場がある。
それはまた、拓哉コーチと、滝本先生の確かさの証明でもあった。僥倖ともいえる、つぐみと杏子を欠いての結果は、ある意味、コーチと先生の手腕とも言えた。
全員が4射を終えたあと、花音が前に進み出て挨拶をした。
「今日、こうして全員揃った引退式を迎えられて、本当に良かったと思います。今年のインターハイでは、私たちはベスト32。個人戦ではつぐみが準優勝。そしてブロック大会の完全制覇。鳳城高校に勝った練習試合も、選抜大会の全国3位も、すべてが私たちの誇りです。」
花音の声は静かだったが、その言葉一つひとつに感謝と誇りがにじんでいた。
「来年からは、全国優勝を目指す戦いになると思います。私たち三年生は卒業しますが、全力できサポートをお約束します。光田高校には、それを成し遂げる力があります。みなさん、期待しています。頑張ってください。」
花音が一礼をすると、全員が拍手で応えた。
平日ということもあって、杏子の姿が無かった。花音といよりも、他の四人はそのことを気にしていた。「まだ完全には許して貰えてないのかな」と。
栞代が「いや、それは違うんだよ。杏子は昔のことはあっさり忘れるタイプなんだけど、杏子のおじいちゃんが、根に持ってて、引退式には出るなって言ったんだ。まあ、そもそも、今日は病院の日らしくて、杏子はおじいちゃんの病院に付き添ってるんだよ。まあ、病院の日をずらしてまで、というか、今、おじいちゃんのことが最優先だから。でも、またいつでも話はすることができると思う
一時は、杏子というよりも、栞代の方が圧倒的に忌み嫌っていたが、今はもうなんの遺恨も残っては居なかった。
引退式のあとは、教室を一つ借りて簡単な送別会が開かれた。お菓子を囲みながら、全員が笑顔で語り合う。
その中で、現部長の冴子が挨拶をした。
「三年生のみなさん、三年間、本当におつかれさまでした。いろいろとあったけど、こうして今日を迎えることが出来たのは、私たちも本当に嬉しいです。
また、一年生にも伝えておきたいのですが、実は瑠月さんが、自分も引退式に出て、引退したい、という意向を伝えてきていたんです。
でも、私は、全力で反対しました。
それは、瑠月さんの言う理由が、試合に出られないから、ということだったからです。もしも、勉強したいから、と言われたら、ここまで強く反対は出来なかったかもですが・・・。
私たち二年生と一緒に弓道部に入って、今の一年生も何人かは練習の厳しさ、というか、退屈さにも耐えられず何人も辞めたんですが、私たちの時は、もっと激しかったんです。その中で、支えあってきた瑠月さんが、公式戦に出られないからといって、先に引退するのは、耐えられなかったんです。
瑠月さんに、正直にその気持ちを伝えて、翻意してもらいました。
試合前の練習などは、また相談して打ち合わせしていきますが、全国制覇を目指して、頑張りましょう」
「勉強も見てもらわないとダメだしね~!」と、あかねが明るく突っ込むと、みんなが声を揃えて「その通りっ!」と笑い合った。
冴子は少し照れくさそうに笑いながら、改めて言った。
「今日の三年生みたいに、最後まで一緒に弓を引ける部活にしたいです。だから、みんなよろしくね。」
その言葉にまた大きな拍手が湧き起こる。送別会は、温かい空気に包まれて終わりを迎えた。
これで三年生は本当に引退だ。それぞれの思いを胸に、後輩たちは全国大会制覇を目指して、新たな一歩を踏み出していく。




