第9話 はじめての訪問の巻
その日も、通常の練習が終わってから、栞代と杏子は残って練習していた。
昨日、コーチから鳳城高校との練習試合の話が出て、2年生と国広、小鳥遊が残って練習している。男子部員も2年生を中心に数名が残っているようだ。
1年生で残っているのは、栞代と杏子、つぐみの三名。だが、一年生の練習といえば素引きだけ。そして射法八節の繰り返し。さすがにこの段階で居残り練習をする気には、普通ならないだろう。
それでも、杏子の力を見ている栞代は、この練習が杏子のような綺麗な射型に繋がると思い、一回一回丁寧に行っていた。栞代にはバスケットボールの経験があり、基礎練習の大事さはよく分かってる。
ふと、中学時代を思い出す。あの苦手な角度のシュートを何度も何度も繰り返したことが蘇ってくる。ただし、シュート練習はその場で結果が見えるが、今の素引きの練習はただフォームを繰り返すだけで、すぐに成果が見えるわけではない。バスケでも、ボールを持たずフォームだけの練習を繰り返すのは、辛いだろう。そのことを考えると、少し焦る気持ちが湧いて、早く弓を引いてみたいと思った。
その時には、あらためて、中てることを考えない杏子の偉大さが改めて分かるかもしれないな、と思った。
そんなことを考えていると、いつもより早い時間に、杏子が栞代に声をかけてきた。
「ね、今日うちに遊びに来ない?」
「えっ、本当にいいのか?」
「うん。昨日、栞代が遊びに来たいって言ってたから、おばあちゃんとおじいちゃんに聞いてみたの。そしたら、いつでも連れておいでって。早いほうがいいでしょ?練習試合が近くなったら忙しくなるだろうし」
「お、そうなんだ!じゃあ行く行く!」
「栞代の家は大丈夫?」
「ああ、うちは放任主義だから大丈夫。でも、一応ちゃんと連絡はしておくよ。今日は両親も遅くなるって言ってたし、ゆっくりできると思う」
「そうなんだね」
「じゃあ、今日は早めだけど帰ろっか」
「うん、オッケー!」
二人で帰る準備をして国広花音に挨拶すると、「珍しいね」と微笑まれた。いつも最後まで残るのに。杏子の家に行くと伝えると、「おばあちゃんによろしく」と笑顔で言われ、冴子、瑠月や沙月、つぐみにも同じようにいわれた。みんな、杏子のおばあちゃんのことが気になっているんだなと感じた。そりゃそうだ、あの素晴らしい杏子の射型を育てた人なのだから。
コーチに挨拶すると、コーチにまで「おばあちゃんによろしく」と言われ、思わず笑ってしまった。。
「ただいま~」
玄関の扉を開けた杏子の声に、家の奥からすぐに応える声が聞こえてきた。
「あ、杏子ちゃん、お帰り」
優しい声とともに、柔らかい笑顔のおばあちゃんが現れる。まるで杏子がそのまま年を重ねたかのような雰囲気だ。栞代は杏子の未来を少し垣間見た気がして、不思議な温かさを感じた。きっと杏子も、おばあちゃんのように優しく、穏やかで、愛される存在になるのだろう。
「栞代連れてきたよ」
杏子がにこっと笑って紹介すると、栞代も少し緊張しながら一礼した。
「はじめまして、栞代です。よろしくお願いします」
「いらっしゃい、栞代さん。散らかってるけど、ゆっくりして行ってね」
おばあちゃんの声は温かく包み込むようで、栞代の緊張もほぐれていく。まるでこの家そのものが杏子のように優しく迎え入れてくれるようだった。
「じゃあ、杏子ちゃんは着替えておいで」
「うん。栞代、ちょっと待っててね。おじいちゃんも呼んでくるから」
杏子が部屋に向かうと、栞代はおばあちゃんに上着を渡し、リビングの椅子に腰かけた。部屋には家族の思い出が飾られていて、居心地の良さが感じられる。小さな時計がカチカチと静かに時間を刻み、ゆったりとした空気が流れていた。
「コーヒーと紅茶、日本茶もあるけど、どれがいいかしら?」
「えっと、紅茶をお願いします」
「じゃ、少しだけ待っててね。紅茶はおじいちゃんが担当なのよ。紅茶にはちょっとこだわりがあってね、きっと美味しいと思うわ」
栞代は少し驚きつつも、「ありがとうございます」とお礼を言った。おじいちゃんが紅茶を淹れるなんて、とても素敵な家族だなと思う。
「栞代ちゃん、あっ、栞代さんだわ。ごめんなさいね」
「いや、栞代ちゃんでお願いします。嬉しいです」
「ほんと? じゃ、栞代ちゃん、杏子は迷惑かけてない?」
おばあちゃんの優しい目が、杏子への愛情を込めて尋ねるように栞代を見つめる。
「いや、おばあちゃん、迷惑なんてとんでもないです。もう本当に杏子の弓を射る姿が美しくて、みんな感動しています」
おばあちゃんは目を少し見開いて驚いた様子で、「え? まだ、実際に弓を扱うには早いんじゃない?」とつぶやくように言った。
あっ、しまった、と栞代は思った。おばあちゃんに心配かけないように、杏子は初日二日目にあったことを、おばあちゃんに報告してなかったのか。
「なにかあったのね。大変なこと? 話せるなら、話してくれる?」
栞代は杏子の気持ちを思って少し躊躇い、慌てて何か言い訳をしようとしたが、おばあちゃんの穏やかな視線に見つめられると、なんだか嘘をつくことができない気がして、正直に話すことにした。
杏子は、心配かけたくなくて話してないと思うんです。自分が話したことは黙っててください、と念を押して、栞代は話した。
そして、
「でも、今は部活の雰囲気もすごく良くなって、みんなで一生懸命頑張ってます!」
と付け加えた。
「そう。そんなことがあったの。なんか少し恥ずかしいわ。」
「いや、そんな。みんな、杏子を育てたおばあさんがどんなすごい人か、興味津々ですよ。」
「全然凄くなくて、驚いた?」
「いや、杏子と瓜二つにそっくりなんで、驚きました。」
二人は軽く声を出して笑った。そして、おばあちゃんは、
「今の話、おじいちゃんには内緒にしてね。おじいちゃんは、自分のことはからっきし意気地なしなんだけだけど、杏子のことになると、まるで人が変わったみたいに熱くなるから」
「わかりました。おじいさんには内緒にしますね。おじいさんにお会いできるのも楽しみにしてるんです」
「早くこないかしら。何してるのかな。紅茶が待ち遠しいのに」
おばあちゃんはクスリと笑い、栞代もその柔らかい笑顔に心から安心するのを感じた。杏子がどれだけこの人に愛され、支えられてきたのか、その表情一つで伝わってくる。そして、杏子が持っている優しさや強さの源がここにあると感じ、栞代の胸にも温かな気持ちが広がった。。
そこへ、軽快な声が響いた。
「お~、ぱみゅ子、早速連れてきたんだな!じゃあ、うまい紅茶を入れてやらんとな~」
ラフなシャツに着替えた杏子が、おじいちゃんを連れて戻ってきた。栞代はすかさず立ち上がって挨拶をする。
「あ、初めまして。おじゃましています、栞代です」
「お~、栞代さんか~。ぱみゅ子から聞いてるよ。仲良くしてくれてるみたいで、ありがとな。今日はお礼に特別うまい紅茶を淹れてやるから、楽しみにしててくれ」
「え? ぱみゅ子?」
杏子が苦笑いしながらやってきて、「栞代、お待たせ。おばあちゃんと話せた?」と声をかけると、栞代も笑顔で答える。
「ああ、あんまり杏子にそっくりなんで驚いたよ」
「ふふっ。ありがと。」
杏子は嬉しそうに応えた。
「杏子をこれだけ育てたおばあちゃんだから、やっばり弓の経験者、なんですか?」
「ふふふ。わたし、金メダルプレゼントしたいって言ったのは、おばあちゃんは銀メダル持ってるからなんだよ。」
杏子が誇らしげだ。
「え~~っ、すごい!なるほど、そういうことか!なんか、全部の話が繋がってきたわ!」
栞代の驚きに、杏子が少し照れくさそうに笑った。
「もう絶対にプレゼントしたいんだ」
「うん、オレもめっちゃ頑張るよ。団体戦だもんな」
「本当に、一緒に頑張ろうね」
そこに、香り豊かな紅茶の匂いが漂ってきた。
「はい、紅茶が入りましたぞ~。まだ栞代さんの好みがわからないから、今日は一般的なダージリンにしてみたけど、他にもいろいろあるから遠慮せずに言ってくださいよ。ぱみゅ子は鍛えてるから、なんでも飲めるぞ」
「あ、ありがとうございます」
カップを口に運んで一口飲むと、その香りと味に栞代は感嘆した。
「うわっ、本当に美味しいです、おじいさん」
「そうだろうそうだろう。こんなうまい紅茶、なかなか飲めないぞ。普通の喫茶店なんかとはレベルが違うからな。紅茶専門店にずっと通ってたから、腕には自信があるんじゃ!」
「栞代、無理しないでいいのよ」
杏子が少し呆れたように声をかける。
「いや、杏子、これは本当に美味しい」
嬉しそうな栞代を見て、おばあちゃんがニコリと笑う。
「栞代ちゃん、今日はご飯も一緒に食べて帰るでしょう?」
「あ、いいんですか?」
「そのつもりで用意してるの。ご家族に連絡しておいて」
「はい、多分大丈夫です」
その後、栞代はおばあちゃんを手伝うために一緒に台所へ向かった。ふと杏子が来ていないことに気づき、「あれ、杏子らしくないな、どうしたんだろう?」と首を傾げたが、すぐにその理由がわかった。杏子はおじいちゃんに捕まっていて、杏子を離す気は全くないみたいだ。
「栞代さん、座って待ってていいのよ」とおばあちゃんは微笑んだが、栞代は「いえ、お手伝いさせてください」と答えた。その後、杏子とおじいちゃんの様子を見ながら、彼女は思わず声に出してしまった。
「いや、本当におじいさんは杏子が大好きなんですね」
おばあちゃんは笑顔で頷き、「そうなのよ」と静かに答えた。その姿に、栞代は心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
栞代はふと思い出したように口を開いた。
「あの、ところで、ひとつ聞いてもいいですか?」
「いいわよ。何でも聞いて」
「さっきから『ぱみゅ子』って聞こえるんですが…ぱみゅ子って?」
おばあちゃんはクスリと笑った。「ふふふ、それ、杏子のことなの」
「えっ? 杏子のことなんですか?」
おばあちゃんは懐かしそうな表情で話し始めた。「おじいちゃん、ずっときゃりーぱみゅぱみゅが好きでね。孫が女の子だってわかったとき、『ぱみゅ子』って名前にしたいってダダをこねて、もう大変だったのよ」
「えっ、本気で?」
「ええ、ほんとに本気で。だから息子、杏子のお父さんね、がおじいちゃんをいろんなところに連れ回してる間に、わたしがこっそり届けを出したの。それを知ったおじいちゃん、すっかりすねちゃってね。自分だけは一生『ぱみゅ子』って呼ぶって言い張って、今もずっとそのまま」
栞代は思わず吹き出した。「はははは…あ、ごめんなさい、失礼しました」
「ううん、いいのよ。ほんとに笑っちゃうでしょ?でもね、杏子はおじいちゃんのことを思って、嫌がらずに受け入れてるの。それが杏子の優しさなのよね」
栞代も杏子の姿を思い浮かべ、しみじみと頷いた。「杏子、ほんとに優しいですもんね」
「本当にね。小さいころは少し混乱もしたみたいだけど、『自分には二つ名前があるんだ』って思うようになったみたいよ。今も、そう思ってるのかもしれないわね」
その言葉を聞き、栞代は胸が温かくなるのを感じた。杏子は、こんなに愛情深い祖父母に囲まれて育ったんだな、と。そして、きっと杏子のご両親も、まだ会ってはいないけれど、温かい人たちに違いないと感じた。自分の家の両親と祖母がぎくしゃくしている分、こんなに家族の愛に包まれている杏子が羨ましかった。
ふと杏子の方に目を向けると、彼女がずっとおじいちゃんの相手をしているのが見えた。楽しそうに見えるけれど、ちょっと大変そうだな、とも思った。
もうまとわりついてる感じで、一瞬の隙も無くおじいちゃんが話しかけてて、杏子が丁寧にひとつひとつ応えてる。
そのとき、栞代は杏子が以前、弓道の魅力について語ってくれた言葉を思い出した。
「煩わしい他のことは一切考えずに
落ち着いて静かな気持ちになって弓を引く。
ほんとに気持ちよくて大好きなの」
改めて祖父の相手をしている杏子を見て、
杏子、やっぱりおまえもいろいろ苦労してるんだな…と、心の中で笑った。
杏子
「ち、違うのよ、栞代!おじいちゃんのことも大好きだから、楽しいの!煩わしくなんかないのよ~!」