第83話 散歩 杏子の決意
朝の陽光が障子越しに柔らかく差し込む中、杏子はいつもより少し早く目を覚ました。聞き慣れた祖父の咳払いの音がする。それを耳にした瞬間、杏子の胸はじんわりと温かくなった。
「おじいちゃん、やっぱり家がいいね」
そう呟きながら、杏子は布団を畳んだ。
笑みを浮かべながらお茶を飲む祖父の姿があった。薄青い湯呑の湯気が、部屋の空気にほのかな香りを添えている。
「おはよう、ぱみゅ子。」
祖父はいつものように杏子をそう呼んだ。少しやつれた顔は、しかし家に戻った安心感からか、どこか穏やかに見える。
「おじいちゃん、おはよう!具合はどう?」
杏子は祖父の隣に座り、心配そうに顔を覗き込んだ。
「最&高じゃ。病院の飯に比べりゃ、おばあちゃんの朝ごはんは天国じゃよ」
祖父は豪快に笑い、手元の湯呑を置いた。
その言葉に杏子もつられて笑う。祖母が台所から「もっとゆっくり食べるんだよ」と声をかけてきた。台所からは、焼き魚の香ばしい匂いが漂ってくる。
「おじいちゃん、今日もゆっくり休んでね。無理しちゃだめだよ。」
杏子がそう言うと、祖父は少し悪戯っぽく目を細めた。
「じゃあ今日は特別に、おじいちゃんのお嫁さんになってくれるか?」
冗談混じりに聞く祖父の声には、どこか本気が隠れている。
杏子はまたかと呆れながら、精一杯の笑顔で答えた。
「じゃあとりあえず今日だけだよ!おじいちゃん、元気でいてくれたら、いつでも考えたげるから」
その言葉に祖父は満足そうに頷き、祖母は奥から「もう、子どもみたいなこと言って」と呆れたように笑っていた。家の中は久しぶりに、こんなに明るく温かな空気に包まれている。
朝食を終えた後、杏子は道着を手に取ろうとして一瞬立ち止まり、祖父に向き直った。
「おじいちゃん、今日は練習休むよ。しばらく家で一緒にいるから」
その言葉に祖父は驚いたように目を丸くしたが、すぐに軽く咳払いして口を開いた。
「ばか言え、ぱみゅ子。お前にはお前の夢があるんだろう。練習に行かないでどうする」
「いいの。今はおじいちゃんと一緒にいることが一番大事」
杏子の瞳には、どこまでも真剣な光が宿っていた。一度言い出したら絶対に曲げない、杏子の頑固さをよく知っている祖父は、ため息をつきながらも苦笑いを浮かべる。
「そうかそうか、そこまで言うなら仕方ないな。でも、家にずっといるんじゃ身体がなまっちまう。散歩ぐらいには付き合ってくれるんじゃろ?」
杏子はぱっと顔を明るくし、大きく頷いた。「うん!もちろん。ゆっくり距離を増やしていこうね」
祖父は笑いながら腰を上げ
「じゃあ行くぞ、ぱみゅ子。」と杏子の手を軽く引いた。二人でゆっくりと家を出ると、冬の澄んだ空気が鼻をくすぐった。近くの川沿いを歩き、少し休憩した。
「ぱみゅ子。もうこの話はしないから、もう一度だけ」
「え~、なによおじいちゃん。またお嫁になれって話?」
「い、いや、ちゃうわ。
ぱみゅ子、わしも今回の大会がどれほどのチャンスかは分かってたんじゃ。たしかにつぐみさんが居なくなっちゃったから、エースが抜けたのは痛かっただろうけど、それでもまだ瑠月さんが居たし、優勝する大チャンスだったと思う。
ぱみゅ子の夢を叶える大チャンスに、ほんとにすまん。」
「・・・・・・。」
「すまん」
「おじいちゃん、それ、あと一回でも言ったら、ほっぺたつねるぐらいじゃすまないよ。絶対にお嫁さんになんかなってやんないんだから。口もきかないよ、絶対。
おじいちゃんの方が大事に決まってるじゃない。だから、これからは少し健康に注意して」
「・・・・・・・・・・・・・」
「お願い」
杏子は、ずっと隠そうとしていた涙を、祖父の前でぼろぼろと流した。
祖父はオロオロしてがら、
「わ、わかったもう言わん。だから、泣き止んでくれ。悪かった。もう言わんから。そ、それに、全国大会はまだあるしな。ぱみゅ子。応援してるぞ」
「・・・・・・・・・・・・・・・。わ、わたし、泣かないって決めたのに、なんだか、おじいちゃんにばっかり泣かされてるじゃん」
二人はゆっくりと流れる川をぼんやりと見ていた。
杏子は涙を拭いて、元気良く言った。
「じゃ、寒くなるから帰ろっか」
「そ、そじゃな」
「おじいちゃん」
「ん?」
「必ず夢は叶えるから」
祖父は一瞬驚いたように杏子を見つめたが、彼女の瞳に宿る強い光を見て、小さく笑った。
「そうか……お前は本当に強くなったな。」
杏子は歩みを再開し、祖父の横に並びながら、少しだけ視線を上げた。
「私ね、おじいちゃん。おばあちゃんが取れなかった金メダル、必ず私が取るから」
祖父は足を止めた。そしてゆっくりと杏子の顔を見つめる。
「ぱみゅ子」
「うん、絶対に叶える。おじいちゃんとおばあちゃんに、私の一番いいところを見せて。それが私の夢だから。」
杏子の声は揺るぎない決意に満ちていた。その力強さに、祖父は少しだけ目を潤ませながら、小さく頷いた。
「お前なら、きっとできるさ。おじいちゃんが一番信じてる。」
祖父の声には、深い信頼が込められていた。杏子は微笑み、祖父の腕にそっと自分の腕を絡ませる。
「ありがとう、おじいちゃん。これからも応援してね。」
祖父は力強く頷き、二人はまた歩き始めた。
冷たく澄んだ冬の空気の中、杏子の心には熱い炎が燃え続けていた。その夢は、祖父母への感謝とともに、確実に彼女の中で輝きを増していた。
そして小さな声で呟くように言った。
「おじいちゃんが元気なら、夢ももっと頑張れるよ。だから、しばらくは一緒にいるね」
祖父は何も言わずに微笑み、杏子の頭をそっと撫でた。その手の温かさに、杏子は心がふっと軽くなるような気がした。二人の影が冬の陽射しに伸び、川沿いの道に、どこまでも一緒に続いていった。




