第82話 退院翌日
「それじゃ、オレは帰るな」
栞代がそう言うと、母が
「あ、送って行くわ」
「ありがとうございます。でも、今日は自転車で来てるので、大丈夫です」
「そ、そう? ちょっと残念」
母は笑って伝えた。
杏子が、栞代を玄関先まで見送りに行った。
「栞代」
「ん、どうした杏子」
「わたし、少しおじいちゃんに付いててあげようと思うんだ」
「そか。まあ、そうだろうと思ってたよ」
「みんなにはよろしく言っておいて」
「ああ。ああ見えて、実はおじいちゃん、結構人気もんだから、みんな心配して会いたがってるからなあ。これはおじいちゃんには言うなよ」
「うん。どーせ、わしより紅茶目当てだろ~って、いじけそう」
二人で軽く笑ったあと、
「栞代」
「ん?」
「ほんとにありがと」
「よせよせ、そんなこと言い出したら、オレの方がどれだけ世話になってるか。オレにできることがあればいつでも言ってくれよな」
「うん」
「じゃな、なにかあったらいつでも言えよ」
「うん。じゃあ、栞代、ずっと顔だしてね。おじいちゃんも会いたがってるから」
栞代が帰ったあと、杏子はちゃぶ台を片付けながら、そわそわと落ち着かない様子だった。祖父母が湯呑を手に静かに談笑し、母がその中に入っては、微笑みながら、会話を楽しんでいる。
そんな様子を見ながら、父が祖母に似ているのは当然としても、祖父と母が、話すこととか雰囲気が似ていて、いつも杏子は不思議に思っていた。
杏子は少し迷うような表情をしてから、意を決したように口を開いた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、今日からみんなで居間で寝ようよ」
その言葉に祖母が驚いて顔を上げる。
「えっ、杏子ちゃん、どうしたの?急にそんなこと言い出して。おじいちゃんなら、わたしが見張ってるわよ」
祖父も不思議そうに眉をひそめた。
「どうしたんだ、ぱみゅ子。お前もしかして、わしがまた倒れるんじゃないかとでも思ってるのか?」
祖父の問いかけには冗談めいた響きがあったが、その瞳は杏子をしっかりと見据えている。
杏子はふっと息を吐いてから、真剣な表情で答えた。
「そうじゃないけど。先生も一月は注意した方がいいって言ってたでしょ。
おじいちゃんもおばあちゃんも、私にとっては一番大切な家族だから、やっぱりみんな一緒がいいの。
もし何かあったら、私がすぐに気づけるし、安心するでしょ?」
祖母は杏子の言葉に一瞬考え込むが、「確かにみんな一緒にいると安心かもしれないけど……でも、そんなことしたら窮屈じゃないかしら?」と優しく答えた。
「大丈夫だよ!私がちゃんと布団を並べるし、居間が一番広いんだから問題ないよ。炬燵もあるから温かいしね。」杏子は、自信たっぷりに提案を続ける。
祖父は苦笑しながら湯呑を置いて、杏子を見上げた。
「ぱみゅ子、お前がそこまで言うなら仕方ないな。でも、母さんも帰ってきてるんだぞ。四人でここに寝るってのは、さすがに無理があるんじゃないか?」
その言葉に杏子はすぐさま反応した。
「それなら大丈夫。お母さんにはお母さんの部屋で寝てもらうのが一番いいよ。お母さんはまだ若くて元気だし、わざわざ居間に寝なくても平気だよね」
杏子の母が少し驚いたように目を丸くし、思わず笑ってしまう。
「あら、杏子、それって私のことを気遣ってるのか、ただ追い出そうとしてるのか、どっちなの?」
杏子は顔を赤らめながらも胸を張り、「どっちも、かな」と笑いながら言い切った。
母も笑いながら、
「確かに私が居間に寝たら、スペース的にも大変かもしれないわね。でも、杏子がみんなをちゃんと考えてるのはわかったわ。」娘の決意を受け入れるように頷いた。
祖母が根負けしたように肩をすくめ、「杏子ちゃんに任せるわ」と微笑むと、杏子は満面の笑みを浮かべて押し入れから布団を運んできた。夜の冷え込みを気にして、炬燵の布団も一緒に使うよう提案しながら、せっせと準備を進める。
布団を敷き終え、じゃ、寝る準備に入ろうか、と杏子はお風呂の用意をした。
杏子を先にお風呂に入るように言い、その間に祖母は、
「杏子ちゃん、無理しなければいいけど」と気づかうので、母が
「いえいえ、お義母さん、家族なんだから。また正月は家族全員で楽しみましょう。
三人で横になったとき、祖父がふと呟いた。
「こうして三人で川の字で寝るのは久しぶりだな……なんだか、子どもに戻ったみたいだ。」
祖母も優しい声で続ける。
「本当にね。杏子ちゃんがこんな提案をしてくれるなんて」
杏子は照れ隠しに布団を少しだけ頭まで引き上げながら、「こうしたほうが安心するでしょ?わたし、何かあったらすぐ起きるからね」と答えた。その声には、かすかに眠気の色が混じっている。
灯りを消した居間には、祖父の穏やかな寝息と祖母の安らかな気配が満ちていた。杏子は母が自室で見守っていることを思い浮かべながら、静かに目を閉じた。家族の温もりに包まれるような夜。杏子の胸には、大好きな家族を守りたいという思いが、そっと灯り続けていた。




