第8話 練習試合の告知
練習前の道場は、いつもの静けさとは違う空気に包まれていた。コーチの樹神拓哉が、正座した部員たちの前で、重要な告知をしようとしている。窓から差し込む午後の柔らかな日差しが、道場の床を斜めに照らしていた。
「今度の連休、練習試合に行くことにした」
その言葉に、部員たちの背筋が少し伸びる。国広花音が、部長としての責任感を持って、真っ直ぐにコーチを見つめながら尋ねた。
「どこにですか?」
「首都の、鳳城高校だ」
コーチの言葉が道場に響き渡った瞬間、それまでの緊張感が一気に驚きへと変わる。
「ええっ?」という声が、あちこちから漏れ出た。鳳城高校―その名前は、高校弓道界では誰もが知る存在だった。団体戦、個人戦ともに常に全国優勝候補であり、その名声は揺るぎないものだった。何人もの一流選手がそこから輩出され、弓道の未来を切り開く存在として、全国から注目を浴びている。
花音の声には、明らかな驚きと戸惑いが混ざっていた。「よ、よく、鳳城が練習試合に応じてくれましたね。うちは、確かに歴史的には名門校といえるとは思いますが、ようやく去年の新人戦で地区予選を突破したぐらいで、県大会もここしばらく勝ってないのに」
花音は、信じられないというような表情で呟いた。
花音の言葉に、他の部員たちも頷く。自分たちの学校が、そんな強豪校と練習試合をするなど、想像もしていなかったからだ。
拓哉コーチの交渉能力にも驚いた花音だったが、花音だけではなく、部員全員、コーチの生い立ちは全く知らなかったので、驚くのも当然だった。後に大きな意味を持つことになるのだが、今は、ただただ驚きだった。
だが、今はその背景を探るよりも、目前の試合に向けて心を集中させるべきと自分に言い聞かせ、各自がその重圧をかみしめていた。
「相手は今年も全国優勝候補筆頭だ。絶対に見ておくほうがいい。みんなはただ、練習の成果をだせばいい」
話が終わり、部員たちの間にざわめきが広がる中、栞代はつぐみの方に体を寄せ、小声で尋ねた。道場の隅から漏れる陽光が、二人の間に細い光の帯を作っていた。
「そんなにすごいのか?」
つぐみは少し得意げな表情を浮かべながら答えた。「ああ、間違いなく全国の高校のトップだ。自慢じゃないが、と言って自慢なんだが、実は私も誘われたんだよ」
「えっ。ま、まあそうか。全国準優勝だもんな。でも、なんで行かなかったんだ?」
「コーチだよ」つぐみは声を落として続けた。「栞代は全く知らないだろうが、コーチは大学の時、一旦弓道を辞めて、再開していきなりインカレで優勝してるんだ。めちゃくちゃすごい人なんだよ。弓道から離れていたのに、復帰してあっという間にトップに立った。そのコーチに熱心に誘われて、しかも地元、そりゃ来るだろ」
栞代の目が丸くなった。「えっ。コーチもそんなにすごい人だったのか。なんか知らないことだらけだな」
「それにだぞ」つぐみの表情が急に真剣になった。
「それに?」
「あそこには、麗霞麗霞が行くって知ってたしな」つぐみの声には、かすかな緊張が混ざっていた。「麗霞は中学の時、3年連続で全国優勝してて圧倒してるんだ。皆は尊敬をこめて、麗姫と呼んでる。麗霞の麗とお姫さまの姫だな。中学の時からすでに伝説の弓士で、今まで大会で的を外したことがない。つまり、わたしが、中学三年の時に破れた相手だ。弓道の日本武闘派の筆頭、白鷲一箭流の家元の娘でもある」
その言葉には、過去の敗北に対する悔しさと、麗霞に対するリスペクトが混ざり合っていた。
実は家庭の事情もあり、地元の高校に進まざるを得ない理由も小鳥遊つぐみにはあったのだが、それは言う必要のないことだと思っていた。
栞代は頭を掻きながら呟いた。「頭ついていかねーわ。」今の彼女にとって、想像もつかないレベルの話だった。「でも、それなら、よけいになぜ、行かなかったんだよ?」
「同じ高校だと、同じ指導を受けるってことだろ。しかも鳳城は彼女の地元。まあ特に差別されるってことはないだろうが、逆に同じことやってても、勝てないだろ。中学の時、圧倒的な差を見せつけられてるんだ。クヤシイが差はめちゃくちゃあるからな」
「いや、全然知らないけど、なんか凄そうだな」
つぐみは少し微笑んだ。「一緒に挑戦しようってコーチに口説かれたって訳さ」
「はー。あんまり話したことないけど、弓だけじゃなくて、口も達者なんだな」
つぐみの表情が急に真剣になった。「なに言ってんだよ。だがな、栞代。これは絶対に他のやつに言うなよ」
「な、なんなんだよ、そんなに改まって。も、もしかして・・・・」
「バカ、そんなんじゃねーよ。杏子だよ」
「えっ杏子がどうかしたのか?」
つぐみは道場の向こう側で準備をしている杏子の方をちらりと見た。「みんなもびびってると思うが、杏子の射型な。その美しさと繊細さっていうのかな、麗姫とは系統が違うが、それでも、レベルの高さは、比べても引けは取ってないぜ」
「えっ?そんなにすごいのか、杏子って」栞代の声には純粋な驚きが混ざっていた。
確かにすごいとは思っていたが、杏子がそんな実力を秘めているとは。
彼女の持つ、どこか神聖さすら感じさせる射型の美しさ。その背景には、日々の鍛錬と集中力、そして「無心」の境地があることを、つぐみは分かっていた。
「ああ、正直言ってすごい。麗姫は白鷲一箭流の家元の娘、その流派は、とにかく『中る』ことを第一に考える武闘系の流派でな。射型はまあ、大袈裟にいえばどーでもいい流派なんだけど、射型がどーでもよくて、中る訳がないだろ?」
「まあ、そうだろうな」
「だから、結果的に射型ももちろんすごいんだが、射型第一の流派じゃない、ということはあるんだが、それでも、こと繊細さに関しては、杏子の方が上かもしれないぞ」
「そうなのか?」
つぐみは少し考え込むように続けた。「力強さでは全く話にならんレベルだが。杏子の強みは、中てようとしていないことだな。とにかく美しい射型を求めてるだろ。普通は絶対に出来ないから。弓をやってたら、絶対に中てたくなる。栞代もそのうち絶対に分かると思う。杏子の凄さは。呑気というかなにも考えてないというか、幼稚園児というか鈍感というか」
「おい、言い過ぎだろ」
「それだけすごいってことだ。でも、麗姫が杏子を見てどう思うのか、ちょっと興味があるな」
「そうだな」
「練習試合とはいえ、試合は試合だ。栞代、杏子をちょっと焚きつけてくれよ。オレも徹底的に仕上げたいし、試合なんだから、当然勝ちに行くからな」
「まあ、煽ってはみるが、杏子は、こと弓に関しては、絶対おばあちゃんの言うことしか聞かねーから」
「そこをなんとかすんのが、栞代、お前の役目だ」
「一回、家に行って、おばあちゃんに会ってみるよ」
「そっちかよ」
道場の向こう側では、杏子が相変わらずの穏やかな笑みを浮かべながら、丁寧に練習の用意をしていた。その姿は、まるで時が止まったかのような静けさを湛えていた。
栞代も練習の準備をしながら、ふと考え込んだ。そういえば、杏子は試合したことないって言ってたな。試合でも変わらず同じように射てるのかな。まあ、あの時も相当キツイ状況だったから、大丈夫だとは思うが、楽しみではあるな。杏子にとっては、試合も普段の稽古の延長に過ぎないのかもしれないな。だが、その姿勢、周囲の環境に影響されない、そのことこそが彼女の強さであり、弓道への絶対的な信頼なんだろう。試合で彼女がどのような弓を放つのか。きっとコーチも、見たいと思ってるんだろうな。
夕暮れが近づく道場に、弓を構える音が静かに響き始めていた。栞代は最後にもう一度つぶやいた。「どちらにせよ、一回、遊びに行きたいな」