第75話 翌日 病室にて
「あれ? ぱみゅ子、こんなところで何しとるんじゃ?」
朝目覚めた祖父が声をかける。
その言葉を聞いた瞬間、杏子は張り詰めていた何かが崩れ落ちるように感じた。
「お、おじいちゃんっ……!」
杏子は、寢ているおじいちゃんに抱きついた。
「よかった……よかった……!」
「いやいや、そんな大げさな。ちょっと立ちくらみしただけじゃ。
それよりぱみゅ子、試合じゃろ?こんなところにおったらダメじゃないか。」
おじいちゃんはそう言いながらも、杏子の肩が小刻みに震えているのを感じていた。
「おい、ぱみゅ子。ぱみゅ子ったら。」
しかし杏子は、顔をおじいちゃんの胸に埋めたまま動こうとしなかった。
「おじいちゃん、昨日はどれだけ大変だったか分かってるの!」
呆れたような声でおばあちゃんが割って入る。
「いやいや、たしかお医者さんとも話したんじゃが、その後すっかり寝てしまったんじゃな。どうやら薬を盛られたらしい。」
「そんな人聞きの悪い言い方しないでよ。」
おばあちゃんがため息をつきながら言う。
「それで、体調はどうなの?どこか痛みはないの? 気分はどう?」
つづけておばあちゃんが問いかけると、おじいちゃんはどこか得意げに胸を張った。
「まるでなんともない。先生も念のための入院じゃと言っておっただけじゃ。」
「まあ、先生に説明は受けたけどねえ」
おばあちゃんが、なにごとも無かったかのように、落ち着いて応えた。
「それよりぱみゅ子、試合はどうしたんじゃ?こんなところに居ちゃダメじゃないか。大したことないからぱみゅ子には知らせなくて良かったんじゃ。確かそう言った気もするんじゃが。
今なら、まだ間に合うじゃろ。早く試合に行きなさい。急げ、急げ」
杏子はゆっくりとおじいちゃん胸元から顔を上げた。目は真っ赤だったが、涙は布団に押しつけて拭っていたのか跡しか残っていない。
「おじいちゃん……。」
そう呟いた次の瞬間、杏子はおじいちゃんの右頰をつねった。
「いたたたっ。こりゃ、ぱみゅ子!何するんじゃ~~!」
「もう、本当に心配したんだから!
しばらくは経過観察が必要だって先生が言ってたでしょ、
わたし、ここに居るから」
杏子はそう言いながらも、怒るのではなく、どこか安心した表情を浮かべていた。
「おいおい、大丈夫なんじゃから、試合に行け!おじいちゃんのためにも、ぱみゅ子の夢を叶えてこんかい!」
「先生に言って、特別強い睡眠薬でももらってこようかしら」
杏子が半分本気、半分冗談でそう言うと、おじいちゃんは慌てて手を振った。
その時、病室の扉が開き、あかねとまゆだった。
「あっ!おじいちゃん、じゃなくて、おじいさん!意識が戻ったんですね!」
あかねが声を張り上げると、おじいちゃんは苦笑しながら頷いた。
「いやいや、心配かけてすまなんだ。もうすっかり元気じゃよ。」
「良かった、本当に良かった……!」
あかねが胸を撫で下ろす隣で、まゆが静かに涙を流していた。声にならない声で「よかった……」と呟き続けている。
「まあ、とにかくじゃな、あかねさん。ぱみゅ子を試合会場に連れて行ってくだされ」
「え?」
「今ならまだ間に合うじゃろ。」
「いや、間に合うとかそういう問題じゃないんじゃない?」
「いやいや、そういう問題なんじゃ」
あかねが困惑しつつも杏子に視線を向けると、杏子は無表情でそっと左頰に手を伸ばした。
「お、おい、それはやめてくれ!」
「おじいちゃん、言ったよね。
わたし、ここにいるから」
「ぱみゅ子……。」
おじいちゃんが複雑な表情を浮かべると、あかねが明るく声を上げた。
祖母はそんなやりとりを見ながら、小さい頃からの、一回言い出したことは、誰に何を言われても、絶対にきかない頑固なところは変わらないのね、なんて思った。
「じゃあ、私が戻る!みんな本当に心配してるし、直接説明してくるから。」
「まゆはどうする?」
まゆはそっと頷き、「の・こ・る」と唇を動かした。
「うん、じゃあ杏子のそばについててあげてね。
そうと決まったら、わたし、行くわっ」
そう言うと、あかねは勢いよく病室を飛び出して行った。
杏子はその姿を見送りながら、小さく呟いた。
「決断も行動も早いなあ、さすがあかね。」
「ぱみゅ子、ぱみゅ子はほんとにいいのか?」
おじいちゃんが繰り返すと、杏子は、またそっと左の頰に手を伸ばすしぐさをする。
「い、いや、分かったから、分かったから」
「まあ、とにかく安静にしなくちゃね。先生ももうすぐきてくれるでしょう。
杏子ちゃん、この時間なら電話できるんじゃない? コーチや先生に連絡してみたら?」
「あ、そうだね。じゃ、ちょっと電話してくる」
「ついでに、お父さんとお母さんにも、報告しておいて。昨日あわててこっちに向かうって言ってたけど、無理しなくていいよって」
「うんっ。分かった」
そう言って杏子は出て行った。
二人きりになったおばあちゃんは、おじいちゃんの手を握りながら、
「試合のことを気にしてドキドキしないだけでも、安静にできるでしょ。」
と、明るく言った。
「いや、心配かけてすまなんだ。処置も、とても早くてよかったと先生が言ってたよ。雅子ちゃん、ありがとう」
その言葉を聞くと、おばあちゃんは
生きてるだけで、まるもうけ
そう呟くと、静かに荷物と部屋の整理をはじめた。