第72話 雲類鷲麗霞
杏子は、雲類鷲麗姿の姿をみて、練習試合からそれほど時間は経っていないが、それでも、更なる進化を感じざるを得なかった。
雲類鷲麗霞。
伝説に挑む弓士である。
白鷲一箭流は、鎌倉時代中期に白鷲光雅によって創始された。光雅は源平合戦の戦乱の中で頭角を現した弓の名手であり、「一箭必殺」を信条とした。その射術は極めて実践的で、矢を的確に的中させることだけを重視し、型や姿勢には一切の拘りを持たなかった。
伝説によれば、光雅はある決戦で、敵将を遠距離から一矢で射抜き、その戦局を一変させた。その際の矢筋は、まるで白い鷲が空を翔るような美しい軌道を描いたとされ、この出来事が「白鷲一箭流」の名の由来となった。
伝説の女性家元・白鷲鳳霞
鳳霞は白鷲一箭流の二代目家元である父、白鷲尊信のもとに生まれ、その家元候補であった兄たちと共に、父の熱心な教えのもと、幼少期から弓術を学び、驚異的な集中力と射技を身につけた。しかし、当時の家元継承の規定では「男子のみ」という厳しい制約が存在した。
10歳にして50射中48中という驚異的な成績を記録し、父からは「次期家元としてふさわしい」と高く評価されていた。しかし当時の社会では、女性が家元を継ぐことは絶対に認められない状況だった。
さらに彼女は兄たちと同じ環境で学びながらも、兄以上の精度と美しい射型を誇り、わずか15歳で百射百中を成し遂げるという伝説を残している。
ある年、白鷲一箭流の名を掲げて行われた「諸流派競射会」に、病の父の代わりに出場した。この競射会には、各流派の家元やその跡継ぎが出場し、その名誉を懸けて技を競うのが常だった。
しかし、白鷲一箭流の跡継ぎである兄たちはいずれも病や怪我で出場できず、急遽、鳳霞が父の代理として参加することとなった。当初は「女性の出場など認められない」と反対の声が上がったが、父の「技量で測るべきだ」という説得により、特例として参加が許可された。
競射会では、鳳霞は冷静沈着な立ち振る舞いと美しい射型で次々と的を射抜き、彼女は圧倒的な成績を収め、参加した他流派の家元たちをことごとく打ち負かして優勝した。
最後の試合では、的の大きさを半分にするという過酷な条件下でも百発百中を成し遂げた。この偉業により、白鷲一箭流の名声は全国に轟き、鳳霞は「白鷲の翼を持つ天女」と称えられるようになった。
競射会での勝利にもかかわらず、流派内では「女性が家元を継ぐべきではない」との反発が根強かった。鳳霞は「女性である」という理由だけでその道を閉ざされそうになるが、しかし、鳳霞の技量と精神性を目の当たりにした門下生たちが彼女を支持し、「家元を決めるには実力であるべき」との声が高まる。
白鷲一箭流の門下生たちが、家元を決めるための特別な競射会を提案。
そこでは彼女をはじめ、男性候補が集まり、同条件で技を競い合った。その結果、彼女は文句なしの圧勝を収め、父は「この者こそが白鷲一箭流の未来を担う」と宣言。女性として初めて家元に就任した。
鳳霞は三代目家元に就任。これは当時としては異例のことであり、日本弓術史における一つの革命的な出来事となった。
鳳霞は家元として30年近く流派を統べ、その間に女性の門弟を増やし、弓道の精神を「男女の別なく、弓を引く者すべてが追求すべき道」と説いた。彼女の死後、その姿は「伝説の弓士」として語り継がれ、白鷲一箭流における最高の精神的支柱となっている。
さらに鳳霞は家元として、戦場での実用を超えた弓道の精神性を広め、「礼」と「心」を重視する流派の基盤を築いた。また、男女を問わず技術を追求できる環境を整え、多くの女性門弟を育てたことでも知られている。
彼女の死後、その存在は「白鷲の天女」として語り継がれ、白鷲一箭流の理念の象徴となった。
伝説の象徴
「百射百中」の逸話
鎌倉時代の競射会で、15歳の時に成し遂げた記録。彼女の名を象徴する伝説として語り継がれる。
「白鷲の翼を持つ天女」
美しい射型と勝利への集中力からついた異名。
「鳳霞の精神」
「弓道において性別は無意味」という教えは、白鷲一箭流の教えの核心として今も残る。
また、鳳霞の時代、白鷲一箭流内では射型を無視する「射型無視派」と、射型の美しさを追求する「射型重視派」の対立が深刻化していた。この混乱を収束させたのが鳳霞である。彼女は両派閥の理念を高次元で融合させ、射型の美しさと矢の的中率を完全に両立した射術を確立した。これにより、白鷲一箭流は新たな黄金期を迎え、鳳霞の名は後世まで語り継がれる伝説となった。
三大派閥と宗家
白鷲一箭流は、宗家である白鷲家を中心に以下の御三家が存在する。
射型無視派:黒羽家
戦場での実用性を重視し、結果至上主義を貫く派閥。姿勢や型は問わず、矢が的に届けばそれで良いという信念を持つ。
射型重視派:華桜家
弓道を「芸術」として捉え、射型の美しさを極限まで追求する派閥。「矢は舞い、的はその詩を受け取るべき」という哲学を掲げる。
折衷派:雲類鷲家
両派閥の理念を調和させたバランス重視の派閥。三代目家元の白鷺鳳霞の流れを最も忠実に受け継ぎ、流派全体の安定を担う。
家元選出とその伝統
家元の選出は、宗家と三大派閥、現家元の協議によって行われる。候補者の実績が最優先され、性別や出自は原則として問われない。ただし、候補になるには、御三家の当主の推薦が必要である。また、85人の家元の中で女性は三代目の白鷺鳳霞のみであり、実質的には男性が家元を継ぐものと見られている。
家元は流派の最高責任者として現役で活動することが求められ、名誉職ではない。少しでも技術の衰えを自覚した場合や、より優れた実力者が現れた場合は、潔く家元の座を譲ることが流派の伝統である。そのため、家元在任期間は平均10年程度と短いが、それが流派の発展と進化を促している。
また、引退後には希望すれば「白鷲」の姓を名乗ることが許され、後継指名に一定の影響力を持つ名誉的な地位に就くことができる。この姓を名乗ることは、流派への大いなる貢献を示す栄誉とされている。
白鷲の誇り
白鷲一箭流の流派名である「白鷲」と、宗家の名字「白鷲」は漢字が同じでありながら異なる読みを持つ。この違いは、流派の神聖性と宗家の責任を明確に区別するためのものである。この流派は創始以来、時代を越えた普遍の理念と誇りを保ち続け、今日までその名を轟かせている。
御三家のひとつ、雲類鷲家に生れた麗霞は、伝説の女性弓士鳳霞の文字をいただき、出生時から、大きな期待をかけられていた。
もちろん、強制的に弓を持たせた訳ではない。
幼少時から、周りには弓があり、自然に弓に親しみ、そして、磨き上げていったのである。弓を持てば母の喜ぶ顔を見ることができ、的にあてれば、祖母の顔が輝いた。
祖母、そして母も家元を目指したがついに叶わなかった。
その事実を知り、そこに挑む決心は、小学生の頃に固まった。
その歴史と思いを背負い、大会に挑む麗霞。家元を継ぐために、挑むタイトルは全て獲得する必要があると覚悟していた。
そして春、杏子の射を見たとき、自分にはないものを感じた。自分には持てない繊細さを杏子の矢に見たのだ。力強さ、大胆さと繊細さは、本質的に両立できない。麗霞の矢は常に鋭く、圧倒的な力を伴って的を射抜く。人を圧倒するような存在感があり、その射型もまた堂々としたものであった。だが。
どんな好敵手に対しても抱いたことが無かった畏怖の念を、抱かざるを得なかった。
その杏子と、今大会、個人戦で相まみえることになる。
始めての感情に、麗霞は戸惑っていた。だが、それを一切表さない程度の経験は、重ねていた。