第67話 杏子の試練
「栞代、突然ですまん。どうしても言えなかったんだ。わたし、引っ越しすることになったんだ。もう明日から学校へは行かない。必ず連絡するから、それまで待っててくれ。」
その言葉に、栞代は息を飲んだ。
「つぐみ……」
胸がざわめくような気持ちを抑えきれず、栞代はその手紙を握りしめた。
(どうして何も言わなかったんだよ……つぐみ……)
その夜、栞代は眠れなかった。窓の外に広がる月明かりの中、静かに目を閉じながら、つぐみの姿を思い浮かべ続けていた。
栞代の胸には、つぐみから受け取った手紙の内容がずっしりと重くのしかかっていた。
杏子の受ける衝撃を思うと、胸が締めつけられるようだった。つぐみと杏子の絆は、栞代がそばで見ていても特別なものだと感じていた。ともに練習を重ね、競い合い、励まし合い――そのすべてが、杏子にとってどれほど大きな存在だったかは、栞代が一番よく知っている。
(つぐみがいなくなるなんて、杏子はどう受け止めるんだろう)
杏子はどんなときも周りを思いやり、笑顔を絶やさない。でも、それは時々、杏子自身が抱える苦しさを覆い隠すためのものだと栞代は知っていた。今回の敗北だって、杏子は自分の迷いを誰にも見せず、ただ一人で抱え込んでいたに違いない。
(だからこそ、オレが支えてやりたいんだ。)
栞代は手紙を握りしめながら、強く思った。つぐみがいなくなるのなら、これまで以上に自分が杏子のそばにいて支え続けるしかない。杏子が本当に強くなるためには、ただ競い合うだけじゃなく、迷いを共有できる相手が必要だと思えた。
(でも……オレだってどうすればいいのか)
胸の中に浮かんだ不安を振り払うように、栞代は深く息を吸い込んだ。つぐみの言葉が頭の中で反響する。
「杏子には、栞代が絶対に必要だから」
その言葉の重みを、栞代はようやく実感していた。
(つぐみ、私にそんな大事な役目を押し付けるなんて、ずるいぞ。でも……やってみる。杏子の力になれるように、私ももっと強くならなきゃ。そもそも最初に杏子に、全力で協力するって約束したしな)
栞代の中で、小さな決意が芽生えた。手紙をそっと机の引き出しにしまい、窓の外を見上げる。夜空に浮かぶ月は、つぐみのいた明るい笑顔をどこか彷彿とさせた。
(明日には、この手紙を杏子に渡さないと。何が書いてあるんだろ。側にいてやらないと)
それにしても、杏子おばあちゃんに金メダルを渡したいという夢への最大の味方を失うなんて。
だが杏子、オレが付いてる。オレが絶対に、杏子の夢を叶えてやるからな。
静かな夜の中で、栞代は自分の中の迷いを抱えながらも、次に進むべき道への決意を固めていた。
翌朝の早朝練習は無かったが、練習が無い時は、杏子は相変わらず、、中田先生の道場に通って、弓を引いた。
静かな道場には、杏子の動きと弦を放つ音だけが響いていた。
中田先生がぼそりと言った。「大丈夫大丈夫、気にしない気にしない。」
ブロック大会の結果を知ってるからかな。
授業が終わって、栞代と一緒に弓道場に向かった。
弓道場に隣接する部室では、昨日の大会の簡単な祝い会が開かれていた。団体優勝、個人戦ワンツーフィニッシュ――全員が光田高校の快進撃を称え合い、温かな空気に包まれていた。
みんなは口々に、これで全国優勝の候補になったとか、鳳城高校を研究しなきゃな、なんて言ってたけど。
しかし、そこにいるはずのつぐみの姿が見当たらない。
体調でも崩したのかな。昨日帰宅してから、家族にお祝いして貰って調子に乗った体調崩したのかな。そうなら、ほんとに良かったね、つぐみ。
杏子はぼんやりとそんなことを思った。深く気にすることもなく、その場の雰囲気に溶け込んでいた。
そのとき、コーチがふと何かを言いかけたが、それを栞代がすっと手を上げて止めた。杏子はその様子を不思議そうに見ていた。
会が終わり、解散となったが、杏子は道場に少し残ることにした。
もう少しだけ弓を引きたいな、ゆの様子も気になるし。
そう思っていると、栞代がそっと近づいてきた。
杏子、これ、つぐみから預かったんだ。
そういえば、昨日、つぐみは栞代に話があるって言ってたっけ。
この手紙のことなのかな。
封を開けると、そこには短い一言が書かれていた。
「杏子、全国で会おう」
?
その言葉をしばらく見つめていたが、意味がわからなかった。
栞代、これ、どういう意味?
杏子は栞代に尋ねた。困惑する杏子に、栞代はもう一つの封筒を渡した。
これ、昨日、つぐみがわたしにくれた手紙だ。読んで。
読んでいいのかな。
杏子は一瞬ためらったが、意を決して便箋を開いた。そこにはつぐみの字で、こう書かれていた。
「栞代、突然ですまん。どうしても言えなかったんだ。わたし、引っ越しすることになったんだ。もう明日から学校へは行かない。必ず連絡するから、それまで待っててくれ。」
え?
なに、これ?
手紙を読み終えた杏子は、呆然とその場に立ち尽くした。
なにこれ……どういうこと?つぐみ……引っ越しって……
何かが胸の中で崩れ落ちていくようだった。つぐみの明るい笑顔、力強い弓、励まし合った練習の日々――それらが一気に遠いものに感じられた。
気がつくと、栞代が肩を抱いてくれていた。
何も言わずに行くなんて……なんで……?
杏子の声は震えていた。その肩にかけられた栞代の手が、かすかに力を込めて支えた。
栞代は杏子をそのまま家に連れて帰ることにした。道場での残りの練習をする余裕は、今の杏子にはなかった。
栞代はコーチに「今日はこれで帰ります」とだけ告げると、静かに杏子を車に乗せた。
栞代は、祖父に事情を話して、車で迎えにきてくれるように手配していた。杏子は一言も話さず、ただ窓の外をぼんやりと見つめていた。
さすがのおじいちゃんも、今日は一言も話さなかった。
おじいちゃんもとても寂しそうだった。
家の中に入ると、杏子はふらふらしながらも、自分の部屋に入って行った。
栞代が、「いつでも連絡してくれよ。明日は迎えにくるから」
そう言うと、杏子は小さく頷いた。
部屋の中で、杏子はつぐみの書いた「全国で会おう」という言葉を何度も何度も繰り返し読んでいた。
「どうして何も言わずに行ったの……つぐみ」
手紙を胸に抱きながら、杏子は目を閉じた。だが、涙は出なかった。何が起きているのかをまだ自分の中で理解できないまま、静かに時間だけが過ぎていった。
夜の静寂の中で、杏子はつぐみの姿を思い浮かべ続けていた。そして、手紙を机の上に置くと、小さな声で呟いた。
「つぐみ……待ってるから……必ず、連絡してね……。」
その言葉は、空虚な夜の中に吸い込まれていった




