第62話 ブロック大会 団体戦決勝、個人戦
団体戦の決勝。
杏子も、つぐみも、そして瑠月も、完璧だった。
ここまで積み上げてきた力を、存分に発揮した。
杏子の美しさ、つぐみの力強さ、そして瑠月の柔軟さ――三人の弓道は、それぞれの個性が際立ちながらも、見事な調和を見せていた。杏子の射は一切の無駄がなく、凛とした姿勢が道場全体を静寂で包み込むようだった。その一方で、つぐみは矢を放つたびに強い意志を込め、まるで矢そのものが彼女の魂であるかのような力強さを見せた。
そして瑠月。瑠月の射は、まるで風のようだった。柔らかく、それでいて芯があり、しなやかな動きの中に確かな正確さが宿っていた。新人戦という緊張感の中でも、自分の役割を理解し、冷静に的に向かう姿勢は、観客を引き込むものがあった。
三人の弓道は、まさに「光田高校弓道部」の全てを象徴していた。杏子が築いた安定感を基盤に、つぐみが勢いをつけ、そして瑠月がその間を埋めるように場を整える――そんな絶妙なリズムで、三人はまさに一体となっていた。
見事な優勝だった。全国には鳳城高校という難攻不落の強豪校が存在しているが、その挑戦権の第一番手の地位を、見事に証明した結果となった。
続いての個人戦。
光田高校からは、杏子とつぐみ、瑠月の三人が出場した。日比野希、前田霞という同地区のライバルと熾烈な戦いを経て、決勝の舞台で最後に残ったのは、杏子とつぐみだった。
午後の道場は、緊張感に満ちていた。競射で残った個人戦の決勝―杏子とつぐみの一騎打ちが始まろうとしていた。観客の視線は、ふたりの立ち姿に釘付けだった。
春の県大会、ブロック大会、そして新人戦県大会、そして今ブロック大会、4大会連続でこの二人は戦い続けていた。
杏子は深く呼吸をし、心を静めるように目を閉じた。
(姿勢だけを考えよう。結果はただの結果……私はそれを繰り返してきた。)
普段は自然に湧き上がるこの思考が、このときはどこか強く意識されすぎていた。前日つぐみが放った言葉が頭の中に残っている。
「明日は絶対に杏子に勝つ。」
その言葉には確かに、つぐみの強い思いが込められていた。そして杏子は、それを知っている。
(つぐみがどれだけこの瞬間を目指してきたか、私は見てきた。つぐみが勝ちたいという気持ちは本物だ。でも……私は、ただ正しい姿勢で弓を引くだけ。)
改めてそう思うほどに、心が揺れた。姿勢だけを考えるはずが、「姿勢だけを考えよう」という意識に力が入り、全身に微妙な緊張が広がっていく。
審判の合図とともに、杏子は弓を引いた。動作は静かで無駄がなく、美しかった。矢は見事に的の中央を射抜き、観客の間に小さなどよめきが広がった。
(よし、いつも通り。)
そう自分に言い聞かせるように、杏子は次の矢を手に取った。
対するつぐみも一射目を決めており、その射型は力強さと安定感に満ちていた。研ぎ澄まされた覚悟が感じられた。ふたりは互いに全く引けを取らないペースで矢を放っていった。
互いに譲らず、三射目に差し掛かったとき、杏子の動作にわずかな違和感が現れた。矢をつがえ、弓を引くその手に、どこか力が入りすぎているように見えた。
杏子自身は気づいていなかった。しかし、その心の中では、「意識しないように」という意識が、逆に身体に余計な緊張を生んでいた。
(私はただ、姿勢だけを考えるべき。つぐみがどう思っているかなんて、関係ない。)
そう思うほどに、心の中に小さなさざ波が立ち、それが彼女の動作に微妙な狂いを生じさせた。
杏子の三射目は、的の縁をわずかに外れた。その瞬間、観客の中で小さなざわめきが起こった。杏子が公式戦で外したのは、春の県大会以来だった。しかもそのときは「失」による失敗だ。
その様子を見ていた拓哉コーチは、眉をひそめた。
(杏子さん……心が揺れているのか?)
栞代もまた、杏子の射型の変化に気づいていた。
(杏子、どうしたの?いつもはこんなに硬くならないのに……。)
さらに、会場の隅で観戦していた祖母も静かに目を閉じて心の中で呟いた。
(杏子ちゃん、無理をしているのね。自分を追い込みすぎているよ。)
杏子は、結果はたまたま、と改めて思い込もうとしていた。だから、本来なら動揺するようなことはないはずなのに。正しい姿勢なら、結果はでるはず。なのに、どうして? どこかおかしかったの。いやいや、結果はたまたま。正しくても、外れることもある。
杏子は、姿勢のことだけを考えようとして、逆に着地点を失っていた。
(私は全力を尽くしている……そう思っているのに、なぜ。)
杏子は、静かに弓を下ろし、深呼吸をした。
対するつぐみの最終射は、真っ直ぐに的の中央を射抜いた。観客席から静かに拍手が広がり、つぐみの勝利が決定した瞬間だった。
杏子は敗北を受け止めながら、静かに一歩下がった。自分では全力を尽くしたと思っていた。だが、その心の奥には、自分でも気づかない違和感が確かにあった。
つぐみは矢を下ろし、退場した。
そして、涙を堪えきれずに杏子に向き直った。
「杏子、ありがとう! 私……やっと勝てたよ。」
杏子は微笑み、「おめでとう、つぐみ。すごかったよ。」とだけ答えた。その言葉には、悔しさよりも、友人への祝福が込められていた。
コーチと栞代、そして祖母は静かに杏子を見守りながら、それぞれの思いを胸に秘めていた。杏子の射型の乱れ――それが、彼女の心の揺らぎを象徴していた。
栞代は、杏子の、まゆの練習の手伝い、そして栞代自身への指導と、杏子自身の練習時間を削ったことが影響したのかもしれないと思いながら、多分、一番影響しているのは、つぐみとの距離が近くなったことなんじゃないかと思った。
夏休み明けから、つぐみも栞代も、平日はほとんど杏子の家で過ごし、つぐみの勝ちたいという思いを一番受け止めていた杏子。
今までは、その思いが表面に出てきてて、杏子の迷いも強かった。けれど、それではダメだという思いが、逆に押さえ込みきれず、自分でも分らないところで表出してきたんだ。
杏子の迷い――それは、これまでにも何度か見てきたものだった。杏子はいつも相手を思いすぎて、どこかで力を出し切れないことがあった。でも、今回はそれとは少し違う。迷いを押し殺そうとする意志が、逆に自分でも気づかない形で表に出てしまったのだ。
(きっと、杏子は自分の優しさとどう向き合うべきか、まだ分かっていないんだな。)
栞代は、試合中の杏子の姿を思い返した。あれほど美しく、迷いの中でも見事に戦う姿は、杏子そのものだった。でも・・・・
そのとき、つぐみが杏子のことを言った言葉がふと脳裏をよぎった。
「傲慢な優しさ」
(傲慢なんかじゃない。そんな思いは、杏子には全くないんだ。)
つぐみの言葉と共に浮かんだのは、人を押し退けることが苦手、争うことが極端に嫌いな杏子の優しさだった。相手に敬意を払い、相手を思いやるその心――それが杏子の強さであり、同時に彼女を苦しめる鎖にもなっている。
団体戦は言葉通りチームのために戦うという意味が強い。でも個人戦になり、相手の事情を知れば知るほど、一人で対処しなければならない。それこそが杏子の壁であった。
杏子には乗り越えてほしい。栞代は、そのためにはどんな協力も惜しまない思いだが、同時に、これは杏子自身が乗り越えなくてはならないな、と感じていた。
ふと、紬の「それは私の課題ではありません」という言葉を思い出した。
栞代は小さく息をついた。
(杏子がこの敗戦をどう乗り越えるのか。きっと、次の一歩が変わるきっかけになる。その支えになってやりたい。)
杏子が見つめるべき道の先には、きっと本当の強さが待っている。栞代にはそれが信じられた。




