第577話 『的を見ない教えと、おじいちゃんの被弾映像』
「……なんか、明日から本物の矢を引くって思うと、急にドキドキしてきました。やっと、本当の弓道のスタートラインに立てるんだなって」
葡萄が、珍しく少し真面目な顔をしてタオルを握りしめながら呟くと、苺も不安そうに「先輩……何か的前デビューに向けてのアドバイス、ありますか?」と見上げた。
それに応えたのは、ドリンクバーの氷をストローでカランと鳴らした栞代だった。
「これな、多分みんなに言われると思うし、言われてもできるわけないんやけど」
栞代が、真剣な顔で人差し指を一本立てる。
「『当てようとするな』。そして、『的を見るな』……や」
「……はぁ!?」
葡萄が身を乗り出して盛大に突っ込む。
「いやいや栞代先輩! 的を見ないで、どーやって的に中てるんですか!?」
「ほんま、その通りなんよなあ。的を見ないでどうやって引くんやろなあ……」
栞代が肘をついて、ぼんやりと遠くを見ながら呟いた。
「栞代さん、何言ってるんですか! 完全な迷宮入りっしょ! 哲学ですか!」
「ははは、ほんまやな。まあ、今は何言っても、頭でっかちになるからな。それは意味ないわ。明日は拓哉コーチの言う通りに、自分の『正しい形』だけを信じて動けばいいだけや。……結局はそこに行き着くしな」
栞代は笑って誤魔化した。けれど、その後少しトーンを落とし、真顔になって続けた。
「だけどな。一つだけ、明日お前らが的の前に立ったら、確実に身に沁みて分かることがあるで」
「なんですか?」
苺と葡萄が、ゴクリと生唾を飲んで身を乗り出す。
「……杏子の偉大さが、嫌ってほど分かるわ」
二人は不思議そうに、隣の席でポテトをモグモグと食べている杏子を見た。杏子は、一華の差し出すタブレットの「映像記録」を夢中になって見ながら、一華とひとつひとつ話し込んでいて、会話を聞いていなかった。
(確かに部長がすごいのは知っているけど……)
葡萄と苺はぼんやりと思った。
けれど、杏子と一緒に二十八メートル先の的へ向かって弓を引いた経験のある者たちは、全員が痛いほど知っているのだ。
二十八メートルの「遠さ」と、中てたいという「的中」の魔力に誰もが翻弄される時。その隣で、常に不動の心で、姿勢のことだけを考えて、中心を射抜き続ける杏子が、どれほど異常な『宇宙の領域』にいるのかを。
「射法八節、ゴム弓、徒手練習……葡萄たちの一通りの基礎映像は残っていますからね」
一華がタブレットを操作しながら、データアナリストの顔で満足げに頷いた。
「この世代からは、最初から完璧に成長の記録が残る初めての代になります。ここからどうやって成長していくのか、データとして非常に楽しみです」
「うわ、めっちゃプレッシャーかかるし! この完璧なギャル体型が、おばあちゃんのご飯食べすぎて変わったらヤだなぁ」
「美容のための記録とちゃうわっ。弓の姿勢の記録や!」
あかねがツッコミを入れ、葡萄が「ちぇーっ」と頬を膨らませる。
「……それにしても」
一華が、タブレットを見つめたまま、ふと独り言のように呟いた。
「杏子部長の中学……いや、さらに遡って小学校の時の基礎練習の記録映像があれば、最高なんですけどね。謎しかない「宇宙人」杏子部長の『正射必中』の秘密をさぐる、大きな助けになるのになあ」
一華のそのマニアックな呟きに、栞代がニヤリと笑った。
「あー、一華。それなら今度、おじいちゃんに頼んで『秘蔵ビデオ』見せてもらったらええんちゃう?」
「えっ!? 杏子部長の小さい頃の映像、残ってるんですか!?」
一華の眼鏡の奥の目が、極上の獲物を見つけた鷹のようにキラーンと輝く。
「あのおじいちゃんやで? 杏子のことになると、ネジが三本くらい常時飛んでるからな。多分、三歳の頃の『おままごと』から全部アーカイブされて保存されてるんちゃうか?」
「ちょっと栞代! もう、おじいちゃんを変な風に言わないでよ!」
杏子がメロンソーダを吹き出しそうになりながら、顔を真っ赤にして抗議する。
だが、あかねが容赦なく追い打ちをかける。
「あー、あるある! 私も前に杏子の家で、ちらっと見たことあるで。杏子のおじいちゃんがこっそり見てたのを、わたしもこっそり覗いたんや。ちっちゃい園児の杏子が、ミニチュアのおもちゃの弓持って、ゴムの吸盤の矢を一生懸命引いてるやつ!」
「うわ! それ見たいっす! それ、命中したんですか!?」
葡萄が身を乗り出して聞く。
「ああ。おじいちゃん、杏子を抱きしめるシーンを撮ろうと、三脚で撮影してたんやろなあ。杏子に、にやにやしながら近づいたら、見事に『おじいちゃんのおでこ』のど真ん中に、パーン! って中ってたわ。で、おじいちゃんはなんか驚きながらも、『ぐはぁっ、ぱみゅ子、見事な腕前じゃ〜!』って嬉しそうに倒れる映像やったで」
「「「あはははは!」」」




