第574話 『日芬合同ランチと、海苔待ちのガチ勢たち』
道場に、鋭い制止の声が響き渡った。
「待て待て待て! おじいちゃん、落ち着けって!」
栞代が電光石火の速さで背後に回り込み、おへそを出そうと暴走する祖父の両腕をガッチリと羽交い締めにする。
「……おじいちゃん、落ち着いて。ほら、お茶飲んで飲んで」
杏子が深いため息をつきながら、真っ赤な顔で冷たい麦茶を差し出す。
「……んぐ。……ふぅ。……わ、わかった。そこまで言うなら、わしの鍛え抜かれた美腹は、今日はお預けにしといたるわい」
ようやく冷静さを取り戻した祖父は、バツが悪そうに鼻の下をこすり、そそくさとポロシャツの裾を整えた。
「さあ! 準備できた! 食べよ食べよ!」
栞代が中心になって、縁側に敷かれたブルーシートの上に豪華な重箱を中心に、それぞれのメンバーが持ってきたお弁当が色鮮やかに並べられた。
そこには、アンナと杏子が一生懸命作った「パンネケーキ」の香ばしい甘い香りと、おばあちゃんが味を調えたフィンランドの家庭料理「マカロニ・ラーティッコ」のチーズの焦げる匂いが混ざり合って、部員たちの食欲をこれでもかと刺激してくる。
「いただきますっ!」
全員が手を合わせ、賑やかなランチタイムが始まった。
と思ったその瞬間。
「おお、遅くなってすまん」
入り口から、エリックが孫のラウリを連れてやってきた。
「こんにちは!」弓道部のメンバーの元気な声が揃う。
「ラウリ、ほれ、せっかくじゃからお姉さんたちと一緒に食べといで」
エリックは、妻のリーサが作り置きしてくれていた伝統的なジンジャークッキー「Piparkakku」の包みをラウリに持たせた。
ラウリは、相変わらず手元の携帯ゲーム機から顔を上げず、恥ずかしそうにモジモジしていたが、ソフィアと葡萄が「ほらほら、こっちおいで!」と両側から腕を引き、強引に自分たちの間に座らせた。ラウリの顔が瞬く間に茹でダコのように真っ赤になる。
エリックはそのまま、杏子の祖父と中田先生と合流して、奥の台所で三人だけの食事をとることにした。
「いやぁ、エリック、来てくれて助かったわい。中田先生と二人きりじゃ、なんか説教されそうでな」
「何言うとる。されそうやない。今からたっぷりさせてもらうんや。だいたい、あんたはちゃんと家事手伝ってるんか。任せきりやろ」
杏子の祖母は家に残って、朝の台所の後片付けなどの家事をしており、ここには来ていない。中田先生の鋭い指摘に、祖父はぐうの音も出ず、連れてくれば良かったと思い切り後悔して肩を落としていた。
縁側では、日芬合同メニューが大好評だった。
「……お、これ、うまいですな〜! グラタンみたいな、でももっと優しい味で箸が進みますわ!」
真映が勢いよくラーティッコを口に運ぶ。
栞代が自慢げに胸を張った。
「ソフィアにレシピ教わって、おばあちゃんが隠し味に、地元の美味しいお醤油をほんの少し垂らしたんやで」
「最高です、さすがおばあちゃん! 日本とフィンランドの架け橋の味ですね!」
ソフィアが、その見事なアレンジに感激して声を上げる。
一方で、アンナは両手で大きなおにぎりを持ち、一生懸命に頬張っていた。
「Kyōko! Tämä on hyvää! Mikä tämä on? Tämä muistuttaa vähän lohta?(キョウコ! これ、おいしい! これは何? ちょっとサーモンに似てる?)」
ソフィアが「サーモンに似てるって言ってます」と通訳してくれる。
「Anna, mahtavaa!(あ、アンナすごい!)」
杏子が目を輝かせる。
「それは鮭だよ。……あ、アンナちゃん、口の横に海苔がついてるよ」
杏子が優しく指を伸ばし、アンナの口元についた海苔を取って、そのまま自然な動作で自分の口に運んだ。アンナはにっこりと笑って、とても嬉しそうだ。
するとその後ろでは。
楓と滴のガチ勢二人が、わざわざ自分の口の周りに大きめの海苔をペタペタと貼り付け、杏子に取ってもらう順番を待つように、真顔でアンナの後ろに並び始めた。
「……お前ら、いい加減にせえよ」
栞代の冷たいツッコミが飛ぶが、二人は全く動じない。
祖母の卵焼き、パンケーキ、そしてリーサの作ってくれたピパルカックも、育ち盛りの部員たちによってすべて綺麗に平らげられた。
食後。エリックは持参した世界一のコーヒーを杏子の祖父や中田先生に振る舞ってすっかり悦に入り、「さて、じゃあ帰るか」と、ゲーム画面から目を離さないラウリを連れて、一足先に帰っていった。
お腹がいっぱいになったアンナが、杏子の祖父のあぐらをかいた膝の上で、安心したようにウトウトと船を漕ぎ始めた頃。
賑やかだった道場に流れる空気が、少しずつ締まっていった。
「……明日から、いよいよ合宿が始まるな」
栞代が、冷たい緑茶を飲みながらポツリと言った。
「前半の四日間は、多分相当ハードな追い込みになるだろうな。……いつもの『臨時コーチ』も来るらしいしな」
杏子は、祖父の膝で眠るアンナの小さな手を見つめ、静かに答えた。
「……いよいよって感じだね」
杏子の視線が、すでに後片付けのためにテキパキと動き出している一・二年生の後輩たちに向いていた。
「よし。じゃ、わたしたちも用意しよっか」
「わたしはこのまま、アンナを見てるね」
ソフィアが、眠るアンナの金髪を優しく撫でて言った。今日は彼女たち裏方にとって、サポートの予行演習でもある。
「今日は無理せんとな。特に一・二年生は、明日からかなりハードなことになるからな。体力を残しときよ」
中田先生の静かな言葉を合図に。
部員たちの表情から、さきほどまでの「普通の女子高生」の柔らかさがスッと消え去り、一瞬にして、的だけを見据える「射手」の鋭さが戻った。
アンナは祖父の膝の上で、寝ぼけ眼を擦りながら、
「Kyōko… tsemppiä.(キョウコ……がんばれ……)」
と、夢の中で応援していた。




