第572話 『休養日のお弁当作りと、日芬(にっぷん)合同キッチン』
公式には、今日は「完全休養日」。昨日の激闘の疲れを癒やすための、静かで穏やかな朝になるはずだった。
ところが、朝食の片付けが終わるか終わらないかのうちに、杏子の家の門を叩く元気な音が響いた。
「Kyōkoー! Hyvää huomenta!」
現れたのは、エリックおじいちゃんに手を引かれたアンナとソフィアの三人だった。
聞けば、ソフィアの両親であるヨハンとミーナは、通訳役のリーサ(エリックの妻)を連れて、朝早くから名所観光へ出掛けたという。
「あれ? 弟のラウリ君は? 家族と一緒に観光に行かなかったの?」
杏子が首を傾げて尋ねると、エリックは呆れたように肩をすくめて笑った。
「あいつは『日本の超高速Wi-Fiと最新のRPGさえあれば、そこが世界最高の観光地(聖地)だ』と言って、エアコンの効いた涼しい部屋に引きこもってゲーム三昧だよ。……全く、最近の若者の考えることは分からんわい」
「それなら、エリックさんも一緒にお昼、中田先生の道場に来てくださいよ。これからみんなで、持っていくお弁当を作って食べることにしたんです」
杏子の誘いに、エリックは嬉しそうにニヤリと笑った。
「それは楽しみだ。それなら、とっておきの『世界一のコーヒー』を淹れて持っていこう」
そう言い残し、エリックは準備のためにいったん自分の家へと戻っていった。
残されたソフィアと杏子は、なにやら不穏な予感に、顔を見合わせて苦笑いを交わした。
「よーし、アンナちゃん! 今日は日本の『おじいちゃん』と一緒に、けん玉にベーゴマ、だるま落とし……日本の伝統遊びを完全攻略するぞ!」
空気をまるで読まず、杏子の祖父が声をかけた。朝から気合十分だった。
縁側には、手入れの行き届いた古い木製の玩具が、まるで宝物のように誇らしげにズラリと並べられている。
ところが、杏子の一言が、その壮大な野望を無慈悲に打ち砕いた。
「おじいちゃん、今日はみんなでお昼のお弁当を作るんだよ? アンナも、一緒にお料理のお手伝いしてくれるよね?」
「うんっ! アンナ、Kyōkoとお料理するっ!」
アンナが満面の笑みで杏子に飛びつくと、おじいちゃんは「ガーン」という効果音を自ら口に出し、わざとらしくその場に崩れ落ちた。
「な、なん、じゃと……!? わしが朝早くからピカピカに磨いて用意したこの『だるま落とし』はどうなるんや! 遊びこそが、言葉の壁を越えた真の異文化交流……」
「おじいちゃん、大丈夫だって。道場に行ったら、みんなで食べるし、まだまだ遊ぶ時間はたっぷりあるからさ」
栞代は、この元気を持て余した祖父が、道場でのアンナの格好の「遊び相手」として完璧に計算できると確信して、適当に宥めた。
「それはほれ、車にでも入れときなよ」
栞代の冷静なツッコミと仕切りを合図に、杏子宅の広い台所は一気に忙しくなった。
今日のメインイベントの一つは、フィンランドの伝統的な家庭の味、オーブンで焼く大きなパンケーキ「Pannukakku」だ。
調理台に用意されたのは、祖母が厳選して買ってきた地元の濃厚な牛乳、放し飼いの鶏の産んだ新鮮な卵、そして最高級の小麦粉と発酵バター。
「アンナちゃん、まずはこのボウルに一緒に卵割ろうか?」
「うん! エッグ、トントン……パカッ!」
杏子が後ろから手を添えて支え、アンナが嬉しそうに卵を割っていく。ソフィアが横で、通訳兼お料理の手伝いとして優しく寄り添う。
「アンナ、Tosi hyvä!(とっても上手!)」
「Kyōko、Oikein!(正解!)」
簡単なフィンランド語と、優しい日本語が台所に飛び交う。
アンナが覚えたての日本語で「オイシクナーレ!」と魔法をかけるように唱えれば、杏子もフィンランド語で「Tule hyväksi!(おいしくなーれ)」とふにゃりと微笑む。
その微笑ましい様子を、ソフィアが採点官のように目を細めて見守っていた。
一方で、ガチの「お弁当」チームは、料理上手な祖母を中心に、栞代がアシスタントとして張り切っている。
こちらの献立は、フィンランドの家庭料理「Makaronilaatikko(マカロニラーティッコ:マカロニと挽肉のグラタン風カセロール)」をメインに据え、それを取り囲むように日本のお弁当の定番おかずが並ぶという、まさに日芬合同のスペシャルメニューだ。
「ほらおじいちゃん、突っ立ってないで手伝って! 鶏肉、照り焼き用と塩焼き用で半分に切り分けて!」
「よ、予定が違う……わしの完璧な予定では、今頃縁側でアンナちゃんに『コマの紐の巻き方』を伝授して、尊敬の眼差しと共に『アンナ、大きくなったらおじいちゃんのお嫁さんになる!』って言われてるはずやったんや……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、おじいちゃんは用意した玩具を「わざとらしく」栞代に見せつけた後、渋々包丁を握った。
「ほれ、このけん玉を見てみぃ。美しい曲線やろ。……あ、おい栞代! そこ塩振りすぎや! それじゃお肉の味が濃くなるぞ!」
「あ、ほんとだ。サンキュ、おじいちゃん」
おばあちゃんの家庭菜園から採ってきたばかりの瑞々しいブロッコリーを茹で、色鮮やかなミニトマトを添える。
栞代は、祖母の的確な指示に従い、テキパキと無駄なく動いていた。その横で、祖母は部員たちからリクエストの多い、あの「黄金の卵焼き」を卵焼き器で大量に作っていた。
「おじいちゃん、ほら、つまみ食い。これ食べれば機嫌直るでしょ」
栞代が、切れ端の卵焼きをおじいちゃんの口に放り込む。
「ふんっ……わしは関西人じゃから、甘い卵焼きは認めんぞ。出汁巻きしか勝たん。……パクッ。……ん、まぁ、うちのばあさんの卵焼きは、悪くない」
ツンデレな感想を漏らしながら、おじいちゃんは満足そうに咀嚼した。
お昼が近づく頃。杏子の家の台所には、オーブンから漂うバターの香りと、お醤油の焦げる最高に食欲をそそる香りが満ちていた。
大きな重箱には、鮭や昆布など具の種類を変えた色とりどりの「おにぎり」がぎっしりと詰められ、その横にはチーズの焦げ目が香ばしい「マカロニラーティッコ」が堂々と鎮座している。
そしてオーブンからは、ふっくらと黄金色に焼き上がった大きなパンネケーキが取り出された。
「……できた。これ、最高じゃない?」
栞代が、並べられたご馳走を見て満足げに腰に手を当てる。
杏子の腕の中では、アンナが自分で作った料理の出来栄えに満足して、「Vau!(わぁっ!)」と幸せそうな歓声を上げていた。
「さあ、車に積み込んで用意したら、出掛けよう!」




