第570話 『愛すべき騒動と、祖母へのイタズラな感謝』
「……はぁ、やっと帰ってきた」
栞代の少し疲れた声と共に、二人は杏子の自宅の玄関に着いた。
今日は早くお風呂に入って泥のように眠ろう。そう思いつつ、杏子が「ただいまー」と玄関を開けた瞬間だった。
「Kyōkoっ! Okaeriッッ! Omedetou!」
弾丸のような勢いで、小さな金髪の影が廊下の奥から飛び出してきた。
「わっ……!? ア、アンナちゃん!?」
驚きで目を丸くして尻餅をつきそうになる杏子に、アンナがギュッと力いっぱいしがみついた。その横で、栞代が吹き出す。
「あはは! 今までの『杏子ガチ勢』の中で、アンナが一番積極的やな、杏子」
奥の廊下から、申し訳なさそうな顔をしたエリックおじいちゃんが出てきた。
「ごめんよ、杏子ちゃん。アンナがどうしても、もう一回直接『おめでとう』が言いたいって聞かなくて……。疲れてるのに、連れてきてしまったんだ」
「いいえ……とても嬉しいです。アンナちゃん、ありがとう。……Kiitos, Anna」
杏子がしゃがんでアンナを抱きしめると、アンナは満足そうに笑い、すぐにエリックの手をギュッと握った。
「Kyōko, mä lupasin, että lähdetään jo tänään. Mun täytyy mennä nyt. …Huomenna! Leikitään huomenna, jooko!
(キョウコ、今日はこれだけで帰るってお約束したから、もう帰らなきゃなの。……明日っ! 明日遊ぼうねっっ!)」
「あ……うん。Huomenna, joo.(明日ね)」
「Kyōkooo! Nähdään huomennaaa!(キョウコーっ! 明日ねーっ!)」
アンナはエリックに手を引かれ、何度も振り返って大きく手を振りながら、車に乗り、いつまでも名残惜しそうに手を振っていた。
栞代が、閉まったドアを見ながら感心したように呟いた。
「杏子、お前いつのまにフィンランド語分かるようになったんだ?」
「ううん。全然わかんない。でも、『明日』ってことはわかったから」
「……フオメンナが明日、だな。よし、覚えた」
その微笑ましい様子を見送っていた杏子の祖父が、豪快に笑いながら二人の肩をバンバンと叩いてきた。
「がはは! アンナちゃん、ちょっと見ない間に大きくなったなあ!」
「うん、まだあれから一年も経ってないのに、少しお姉ちゃんになったよな」
栞代が頷いて、杏子の顔を覗き込む。
「杏子は毎日のようにビデオ通話してたけど?」
「うーん、画面越しじゃ、背が大きくなったのは全然分からなかったな。……そういえば、私が弓を始めたのって、ちょうど今のアンナちゃんくらいの頃じゃない?」
杏子がふと懐かしむように呟いた言葉を聞いて、祖父の顔つきがサッと変わり、何やら悪巧みをするような目つきになった。
「……今、おじいちゃん、なんかよからぬこと考えついただろ?」
栞代が訝しげに声をかけたが、祖父は誤魔化すように両手を叩いた。
「ま、まあ、二人とも、さっさと二階で着替えてこい! 盛大なパーティーじゃっ!」
と、半ば強引に二人を二階の自室へと追いやった。
着替えを終えてリビングに入ると、そこには豪華な「ブロック大会祝勝会」の準備が整っていた。
テーブルを埋め尽くすのは、おじいちゃんが奮発してデリバリーで頼んだであろう特大のピザと、馴染みの寿司屋の豪華な出前桶。
「……この和洋折衷の組み合わせ、どーよ」
栞代は、空腹には勝てず嬉しそうに「いただきまーす!」と手を合わせ、迷わずピザの箱を開け、チーズたっぷりの一切れを手に取った。
「やっぱり、疲れた時はジャンクフードに限るよな!」
栞代は昔から「うに」や「いくら」といった生もの、が少し苦手だった。一方、杏子はさすがに祖父の血を引いているのか、それら濃厚系も好物なら、ピザとの組み合わせを全く気にせず、両方バランスよくモグモグと食べ進める。
そんな栞代の様子を見ていたおじいちゃんが、ニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべて、お寿司の桶を自分の手元へと引き寄せた。
「栞代、こんなうまいもんの味がわからんとは、人生の半分損しとる悲しいヤツじゃのう。うにかて、いくらかて、海の宝石やぞ?」
そう嫌味を言いながら、おじいちゃんは栞代が絶対に手をつけないであろう「うに」の軍艦巻きを、見せつけるようにパクパクと口に放り込んでいく。
「あ、それ……オレが食べない分、杏子にやろうと思っていたのに」
栞代がポツリと言った瞬間、おじいちゃんの咀嚼の動きがピタリと止まった。
「んが……んぐ……っ!」
慌てて飲み込もうとした祖父が、喉に見事にウニを詰まらせて顔を真っ赤にする。
「ちょ、おじいちゃん! 大丈夫!?」
杏子が慌てて立ち上がり、おじいちゃんの背中をトントンとさする。
「おじいちゃん、落ち着いてゆっくり食べないと。……誰も取らないんだからっ」
「……ん、んんっ! げほっ……。い、いや、栞代が杏子にやるって言うから、つい、急いで隠滅をだな……」
バツが悪そうに鼻をすするおじいちゃんを見て、杏子と栞代は顔を見合わせて大笑いした。
食後。杏子の祖父が淹れてくれたとっておきの紅茶でホッと落ち着いた時、栞代が「あっ」と思い出したように自分のスマホを取り出した。
「部員のみんなに、アンナ急襲の報告しなきゃな」と言って、光田弓道部のグループLINEにメッセージを打ち込む。
すると、即座に反応があった。
・グループLINE
楓『今から行っていいですか?』
滴『今から行っていいですか?』
杏子ガチ勢の二人から、恐ろしいほどの反射神経で、ほぼ同時に全く同じセリフが返ってきた。
こいつら、どんだけ必死やねん……と栞代が呆れていると、今度は真映からメッセージが飛んできた。
真映『親分! 今から行きますっ! 行きべきやった! 一生の不覚!』
栞代が慌てて返事を書き込む。
栞代『おい、こんでええっ。もう夜遅いねん。おとなしくしとけ』
葡萄『アンナちゃんはもう家に帰ったんですか?』
栞代『エリックおじいさんと帰ったで』
葡萄『あの、部長に、絶対にアンナちゃんに手を出すなって言ってください』
栞代『……頼むから、これ以上話をヤヤコシクしないでくれ。』
真映『そ、それじゃ若頭! 明日、何時に中田先生の道場に集合ですかっっ!?』
栞代『……あとで時間決めて連絡まわすわ』
明日は「完全休養日」の指示が顧問から出ているはずなのに。
なんの事前の打ち合わせも相談もなく、全員が当然のように「明日も一緒に弓を引く」ことになっているようだ。
「……ほんと、どいつもこいつも」
栞代がスマホを閉じ、呆れたように呟く。
窓の外では、夜の国道を走る車の音が遠くに聞こえる。
「……おばあちゃん」
ゆっくりと湯呑みでお茶を飲んでいる祖母に、杏子はふと呼びかけた。
杏子に振り向いた祖母が、優しい目で続く言葉を待っていたが、杏子は、
「……ううん、呼んでみただけ」
といたずらっぽく首をすくめ、照れ隠しに笑った。
杏子はゆっくりと、祖父自慢の温かい紅茶を喉に運んだ。




