第563話 『SISUの言葉と、小さな祈りの魔法』
南方武道館の廊下には、勝利の歓喜と敗北の静寂が、濃密な熱気となって入り混じっていた。
男子団体は、準決勝で王者・鳳泉館に惜しくも敗れた。しかし、射場から戻ってきた五人の顔に暗い影はない。近年稀に見る、堂々たる傑出した成績だ。
だが、これから決勝戦に臨む女子たちの空気は、男子とは一変してピリピリと張り詰めていた。
昨年の全国大会で手にしたのは、銀色の悔しさだった。三度も二番手で終わる気は、彼女たちには毛頭なかった。
そのためにも、夏のインターハイの前哨戦となるこのブロック大会で、負ける訳にはいかない。
大前(一番手)の栞代を筆頭に、彼女たちの瞳の奥には、言葉にならない執念が、静かに凝っていた。
対する決勝の相手は、千曳ヶ丘高校。
そこには、打倒・光田、そして「打倒・杏子」に凄まじい執念を燃やす、杏子、栞代の元・同級生の小鳥遊つぐみが主将として君臨していた。
そして今、彼女らを導くのは、今年就任したばかりの新監督、朸堂弦観である。
一見すると、どこにでもいるニコニコとした冴えない老人。
「大変やで、この子越えるのは……」
全国選抜大会の映像をたった数秒見ただけで、杏子の底知れぬ恐ろしさを完璧に見抜いたその眼力。つぐみは、その一言だけで彼を完全に信頼し、他の部員たちもまた、主将であるつぐみの背中を見て、朸堂にすべてを預けたのだ。
その朸堂が、出陣前の千曳ヶ丘の部員たちに、ただ一言、穏やかな笑顔で告げる。
「……急ぐなよ。今日はただ、楽しむんや」
極限の緊張状態での、その圧倒的な「脱力」。それこそが、今の千曳ヶ丘を最も危険で鋭利な牙に変えていた。
一方の光田高校。
この試合が公式戦最後となるソフィア。主力としては最後のあかね。
部長の杏子は、出陣を前にメンバーに何かを言おうと、震える唇を開いた。けれど、込み上げる感情と極度の緊張が喉を塞ぎ、言葉にならない。ただ、熱を帯びた無垢な視線だけが、五人のメンバーの間を交差する。
そこへ、拓哉コーチが静かに輪に入ってきた。
「今日のノルマ達成まで、あと一つだ」
ぼそりと、あまりにも事務的で温度のない、いつもの拓哉らしい一言。
緊張をほぐそうとしていたあかねが、即座に食いついた。
「ちょっ、コーチ! それが決勝の舞台に向かうチームにかけるセリフ!? 『感動したぞ』とか、『お前らならやれる!』とか、もっとリラックスさせる気の利いた言葉とかないわけ!?」
「そんな言葉で中たるなら、いくらでも言ってやるがな」
拓哉はふっと、サングラスの奥でわずかに目を細めた。
「相手がどこであろうと関係ない。勝てるだけの技術と心構えは、もう十分お前たちに教えてある。あとはチーム全員で、それをあの射場で表現できるかどうかだけだ。……簡単だろ?」
あかねが反論しようと口を開きかけた時、拓哉はスッとソフィアの方を向いた。その瞳には、一人の誇り高き教え子への、最大限の敬意が宿っていた。
「ソフィアさん。……SISUというフィンランドの言葉の本当の意味を、俺は君の姿勢を見ていて知ったよ」
「……コーチ」
「“Ei se pelaa, joka pelkää.”」
不意に流暢な発音で流れた母国の響きに、ソフィアの吸い込まれそうな碧眼が、驚きに大きく見開かれた。
「光田高校に来てくれてありがとう。最後にもう一度、君のそのSISUという言葉を……俺たちに見せてくれ」
「……おい、今、コーチなんて言ったんや?」
あかねが呆気に取られて横から呟くと、隣でソフィアが静かに、誇らしげに翻訳した。
「……『恐れる者は、勝負の場にすら立てない』。……こっそり相当練習しましたね、コーチ。発音が完璧です」
ソフィアが、涙を堪えるように軽く笑いながら応えた。
「「おぉおおおおお!! コーチすげえ!」」
あかねや栞代たちの声が、感動に震える。
ソフィアの白い頬が紅潮し、すぐに迷いのない、覚悟の笑顔へと変わった。
その感動的な雰囲気を切り裂くように、「Kyōko!」と幼く高い声が響いた。
ソフィアの妹、アンナだ。
警護役のフルーツトリオ(葡萄、苺、滴)の制止をすり抜け、バタバタと短い足で駆け寄ってくる。
「Kyōko, katso mun siskon perään!(キョウコ、お姉ちゃんをお願い!)」
叫ぶなり、アンナは緊張で震えていた杏子の腰に、力いっぱい抱きついた。その小さな体の温もりが、杏子の小鹿のような震えを、ピタリと止めた。
「……うん。任せて、アンナちゃん」
杏子が優しい顔でアンナの金糸の頭を撫でると、少女は次にソフィアに飛びついて強く抱きしめ、満足そうに笑った後、またバタバタと「Sorry!」と言いながら葡萄たちのもとへ駆け戻っていった。
その頃、観客席では。
孫の決勝戦を前にして、祈ったり立ったり座ったりと、単にオロオロと不審な動きをしている祖父を、祖母と真映が必死に落ち着かせようとしていた。
そこへ、ゆっくりと奈流芳瑠月が歩み寄ってきた。
「る、瑠月先輩! 助かりました! このご隠居、ちょっと落ち着かせてください! 私の言うこと全然聞かへんのです!」
真映が泣きつき、祖母も困ったように微笑む。
「ふふ。おじいさん、大丈夫ですよ。さっき下で会いましたが、杏子ちゃんはすごく落ち着いていました。自分のことより、今はソフィアさんとあかねの集大成のことが気になっているみたいで」
瑠月の優しい言葉に、眼を上下させていた祖父はピタリと動きを止めた。
「そ、そうか。……あいつは、昔からそうなんじゃ。『誰かのため』って時のぱみゅ子には、どんなプレッシャーも、誰も敵わんからな」
と呟き、ようやく祖父はドカッと席に座り、落ち着きを取り戻したようだった。
いよいよ、最後の舞台。
観客席では、はるばる海を越えてきたソフィアの両親、そして遅れて到着したあかねの両親が、瞬きすら惜しむように、娘の高校生活最後の晴れ舞台を待っていた。
(どうか、今までの努力の全てを出し切れますように)
その純粋な思いは、観客席にいる光田の応援団、いや、すべての者の共通の願いだった。
「……よし。行こうか」
栞代が、静かに弓を執る。栞代が静かに弓を執る。その後ろに、ソフィア、あかね、紬、そして杏子が続く。
五人分の足音が、廊下の奥へと消えていった。




