第557話 『遅れてきた両親と、葡萄の弓道教室』
一回戦の勝利がもたらした熱狂は、武道館の裏手に広がる楠の木陰へと場所を移しても、いっこうに冷める気配がなかった。真映を中心とした一・二年生たちの賑やかな声が、降り注ぐ蝉時雨を突き抜けて響き渡る。
「まゆアネキ、あの一本! あの四射目の瞬間の射場の空気、完全にアネキが支配してましたよ! まじで鳥肌止まらんですわ!」
真映が身振り手振りで興奮気味に称賛を送れば、あまつや菓も頬を紅潮させて「まゆさん、神ってました」「あの気迫、泣きそうになりました」と、惜しみない賛辞を送る。
車椅子の上で、まゆは照れたように頬を赤く染めながらも、すべてを出し切ったもの特有の満足感が漂っていた。
「目標には届かなかったけれどね」
まゆがそれでも言葉の意味とは裏腹に満足げにそう言うと、
「いや、皆中は誰もが練習すれば届く可能性はあるけど、まゆアネキの今日の姿は、誰も及びません。ある意味、親分も辿り着けない場所でしたよっ」
真映がそう言った時、初めて、まゆの瞳が潤んだ。
そこへ、ドタバタと足音を立てて、汗をハンカチで拭いながら一組の夫婦が駆け寄ってきた。あかねの両親である。
「あ、あかね! ご、ごめんよ! 電車でうっかり寝過ごして、気がついたら見知らぬ終点まで行ってて……慌ててタクシーで戻ってきたんだ!」
父が申し訳なさそうにペコペコと頭を下げると、母も「ごめんねぇ。あかねの晴れ舞台、完全に見逃しちゃったわね」と深く肩を落とす。
二人の様子に、周囲の部員たちがクスッと笑いを漏らす。あかねは呆れた顔で大きなため息をつきながらも、不敵な笑みを浮かべて両親を迎え入れた。
「……ほんっと、相変わらず抜けてるなあ。でも、ちょうど良かったよ。……一回戦は、私はまゆを支える介添えに回ってたから。て言うか、まゆの神掛かった姿見逃したんやなあ。ほんま勿体ない。一華、あとで映像送って」
あかねは、傍らのまゆと視線を交わし、力強く頷き合った。
「ま、次、二回戦からはもう一回私が出るから。しっかり瞬きせずに見といてよ。ここからが、一番いいところなんだから」
その頼もしい言葉に、まゆが小さく、けれど深く頷く。
一番近くで、介添えとして自分を真っ直ぐに見つめてくれたあかね。やはり長年ずっと一緒に居てくれた、支え続けてくれたあかねが、ただ自分のためだけに側に居てくれる。その安心感が、わたしの力のすべてを引き出してくれたんだと、まゆは改めて思った。
まゆはあかねに握手を求めた。
「あかね、続きをお願いね」
「ん?」
「皆中、してきて」
あかねは一瞬戸惑うも、まゆの目を真っ直ぐに見た。
そして、握手の手に力を入れた。
「まゆ、見ててや。まゆの残した宿題、きっちりと片づけてくるからな」
その誰よりも熱い視線と想いが、次は射位に立ち、的を射抜く鋭い矢となって火を吹くのだ。
一方、男子部員たちは、女子たちから少し離れた場所で、全く別の質の緊張感と戦っていた。
「……おい、俺たちの次の二回戦の相手、さっき女子が一回戦で破った琵弦高校の男子チームだぞ。女子の仇をとるってことで、向こうは相当気合入って殺気立ってるらしい」
松平が、少し弱気な声を漏らす。
だが、その視線の先。ベンチに優雅に腰掛ける滝本顧問と目が合った瞬間、男子一同の背筋に氷のような冷たいものが走った。
滝本顧問は一言も発していない。ただ、口元に底知れぬ「悪魔の微笑み」を湛え、ゆっくりとパタパタと扇子を扇いでいるだけだ。
「……琵弦高校の殺気がなんだ」
部長の山下が、急にスッと憑き物が落ちたように、悟りを開いたような顔で呟いた。
「……あの滝本先生の『四時起き・毎日三百射の特別地獄メニュー』に比べれば、相手の高校生の殺気なんて、春のそよ風みたいなもんだろ」
「……全くだな。どっちにしろ負ければ地獄だ。やるしかない」
立川や一ノ瀬も、もはや死地に向かう古代の戦士のような、悲壮感漂う顔で立ち上がった。
そして、女子の二回戦――準々決勝。
大会の掲示板にトーナメント表が張り出された時に、どうなるかと思った二回戦の対戦相手。というのも、川嶋女子の相手は、これまたブロック内ではかなり名前の知れ渡った強豪校だったからだ。
だが、打倒光田への執念を燃やす川嶋女子は、激しい競射の末に勝ち上がってきた
それが判明した瞬間から、光田の空気がピリッと凍りついた。
「川嶋女子か……こりゃ、相当気合入ってんなあ」
栞代が結果を見て、感嘆の声を洩らす。
去年のブロック大会の決勝カード。去年の光田は間違いなく、杏子を擁して、前部長の冴子さんも揃った、充実した最強のメンバーだった。しかし、光田に杏子が居れば、川嶋女子には日比野という伝説のエースが居た。攘虎搏遼の頂上決戦は、一本差で川嶋女子に軍配があがった。
しかし、今年は県大会で光田高校が川嶋女子を寄せつけず完勝した。川嶋女子から見れば、どれほどの悔しい思いを抱いていることだろう。
そして、つい先日合同練習を行い、打倒・光田に並々ならぬ執念を燃やす、宿敵中の宿敵、川嶋女子の気合を目の当たりにしていた。
捲土重来——膝をついた者が立ち上がるとき、その思いはどれほどのものか。鳳城高校に破れている光田高校は、自らの思いを、川嶋女子にも見ていた。一度敗れて立ち上がってきた彼女たちの気迫に、チームは畏怖の念を抱かずにいられなかった。
彼女たちの姿が、射場へと向かう通路に見えた。一糸乱れぬ足運び、冷徹なまでに研ぎ澄まされた視線。光田の賑やかさや温かさとは対極にある、完全なる「勝利の機構」がそこにあった。
「……よし。ようやく、歯ごたえのある相手だ」
栞代が、弓を強く握りしめ、獰猛な笑みを浮かべて前に出る。
すかさず、背後からあかねがツッコミを入れる。
「あんた、どこと試合する前も全く同じセリフ言ってるやん。テンプレか」
「う、うるさいな! 気合の入れ方や!」
いつものボケとツッコミ。それで十分に、チームの肩の力は抜けた。
その後ろで、杏子はただ静かに、高く澄んだ夏の空を見上げていた。
雲はゆっくりと流れ、風は凪いでいる。
「いつも通り。……みんなで、いつも通り、行こう」
杏子の呟きは、誰に聞かせるでもなく、ただ透明な決意として午後の熱い空気に溶けていった。
あかねの戦列復帰、ソフィアの集大成、まゆの誇り。そして、杏子の深く澄んだ「宇宙」。
光田高校、準々決勝。
宿敵・川嶋女子からの、文字通り死に物狂いの挑戦を、今、真っ向から受け止めようとしていた。




