第551話 『静寂の攻防戦。まゆの両親の涙とPrinsessaに魅入られた少女』
そんな大人たちの喧騒から少し離れた場所で。
ソフィアの妹であるアンナは、完全に言葉を失っていた。
初めて見る、試合会場での杏子。
ついさきほど、会場の外で自分の頭を優しく撫でてくれた杏子は、いつもの「ふにゃふにゃした優しい杏子」だった。アンナはそれを見て、自分の胸の奥まで温かくなるのを感じていた。
(大丈夫かな。フィンランドから来て、初めて練習を見た時の、あの信じられないくらい美しい姿を、あの優しいプリンセスはちゃんと今も保ってるかな)
小さな胸を痛めるような心配。
だが、杏子が的に向かって射位に立ち、スッと顔を上げた瞬間。
アンナの吸い込まれそうな青い瞳が、限界まで見開かれた。
(……Jumala(神様)……)
今、大勢の人が詰めかけ、熱気と息苦しさが充満しているこの広い空間の中で、杏子の立っているその場所だけ、時間が止まったかのような圧倒的な存在感を放っていた。
杏子の周りだけ、熱気も雑音も完全に消え失せ、一筋の清冽な水が流れているように見える。
かつてアンナは、「大好きなソフィアお姉ちゃんをそそのかして、遠い日本へ呼び寄せた悪いプリンセス」として、見ず知らずの杏子に嫉妬し、憎んでいた時期があった。
懲らしめてやろうと、わざわざ日本に来て乗り込んだ道場で、その姿を見た瞬間に心を奪われた。そして今、目の前の大舞台でのその「貴さ」に、改めて完全に打ちのめされていた。
ソフィアお姉ちゃんが、なぜ全てを捨ててまで、この人を追いかけてきたのか。
もともとアニメで日本文化に興味を抱き、エリックじいちゃんの影響で日本に強い憧れを抱いていたとはいえ。
まさか、たった一人の高校生に会うためだけに、遠い北欧から日本にまで留学するなんて。
でも、今ならその理由がはっきりとわかる気がする。
お姉ちゃんは、魅了されたんだ。
いてもたってもいられなくなり、ただ、この光の近くに居たくなったんだ。
いつか、この人のようになりたい。
お姉ちゃんも、心の底からそう願ったんだ。
わたしも、いつか、この「光田」という奇跡のような場所で、大好きなお姉ちゃんと、そして Prinsessa Kyōkoと同じ道着を着て、あの神聖な空気の一部になりたい。
アンナの白い頬を、感動の涙が静かに伝い落ちる。
「Haluan olla kuten Kyōko……(杏子のようになりたい……)」
アンナの胸に宿ったこの純粋な思いは、やがて時を経て、海を越えた大きな渦となっていくのだが、それはまだ少し先の話である。
一方、客席の一角を陣取る光田の男子部員たちは、今日初めて、余裕を気取って観戦していた。
自分たちが、強豪ひしめく予選で「三位」という望外の好成績を収め、見事に通過を決めたことで、心に余裕が生まれていたのだ。
だが、その余裕の奥底には、常に女子の圧倒的な結果の後塵を拝してきた彼らならではの、「邪なプライド」も混ざっていた。
女子にはもちろん予選を突破して欲しいが、できれば俺たちより下の、四位以下で通過してほしい。
そうすれば、滝本顧問の『女子の成績を下回ったら地獄合宿』という悪魔の宣告を回避できる。そして何より、滝本顧問のあの恐ろしい「微笑み」の量も減るだろう。笑顔を恐れ、笑顔が減ることを祈る男子部員たちだった。
そんな男子たちの思惑の中で、ただ一人、一切の邪心なく、ただひたすら純粋に、祈り続けている者がい
(まゆさん……! がんばれ……!)
松平は、あまりの緊張と祈りで、膝の上で握りしめた両の拳が白くなるほど、強く力を込めていた。
「おい松平、そんなに力入れたら手が壊れるぞ。お前もこの後、決勝トーナメント引くんだからな」
隣で海棠が苦笑いしながら心配する。
そして、まゆが執念の三射目を中てた瞬間。男子たちの「四位以下で通過してくれ」という邪心は、まゆの頑張りを前に一気に吹き飛んだ。
「っしゃあああ!」
弓道の観戦マナーを守り、声を殺した、けれど熱すぎるガッツポーズ。松平は握りしめすぎてジンジンと痺れた手を高く掲げ、周囲の後輩男子たちと必死に無言のハイタッチを交わした。
「松平さん、やりましたね! まゆ先輩、すげえっす!」
松平が、まゆの弓道になにか直接的な影響を与えたり、指導したわけではない。
しかし、今日、まゆの結果をただひたすらに純粋に祈り続けた熱量は、会場の誰にも負けていなかったという自負がある。
後輩たちが、興奮して手を差し出す。松平は真っ赤な顔で、力強くその手を握り返した。
【女子予選結果発表】
合計十四本的中。
同中の千曳ヶ丘高校を「立ち順」の差で、予選三位扱いでの通過が決まった。
掲示板に結果が発表された瞬間、観客席の光田の応援エリアから、深い安堵のため息が漏れた。
まゆの両親は抱き合ってまた頭を下げ、アンナはエリックから説明され、両手を口に当てて「Prinsessa Kyōko!」と小さく叫び、祖父は監視の目を盗んで、ついに声を出さずにバンザイを三回繰り返した。
光田高校弓道部。
それぞれの熱い想いを乗せた矢は、今、確実に「決勝トーナメント」という次なる、そして最高の舞台へと突き刺さったのである。




