第550話 『祈りのガッツポーズ、あるいは邪心なき応援』
南方武道館は半屋外構造で、空調はない。射場は的に向かって開口部が大きく、通風はあるものの、梅雨明け七月は熱気がこもりやすく、選手の道着に汗がにじむ環境である。太平洋沿岸で、海風が入ることもあるが、風が止まると途端に、地方特有の高温多湿が直撃する。
生ぬるい風が吹き抜ける程度で、選手たちはみな、額に滲む汗を気にしながら弓を構えていた。
併設された観客席は、大勢の人の熱気、そして七月のまとわりつくような湿気に包まれていた。
応援席に座るソフィアの家族にとって、この日本の夏特有の重い空気は過酷な洗礼だった。アンナたちは、エリック爺さんが用意していた対策グッズに、大げさだと疑いの目を向けていたが、今やエリックの正しさを身をもって知った。
通気性の良いリネン・コットン素材の薄着。帽子・日傘。
スポーツドリンク・水を常時携帯し、折に触れ、補給を促し、熱中症予防に塩飴・塩タブレットも用意されている。
そして極めつけは、冷却スプレー・冷却タオル。彼らは、日本人の暑さ対策に、『必要は発明の母』という言葉の意味を、身をもって噛みしめた
最終兵器とばかりに、静音式のハンディ扇風機を握りしめ、競技の妨げになる音を立てないよう細心の注意を払いながら、じっと眼下の射場を見つめている。
会場が、不自然なほどの静寂に包まれた。
光田高校の三番手、車椅子のまゆが射位に入る。介添えとして付き添うソフィアが、その車椅子をミリ単位の狂いもなく所定の位置に固定する。
観客席の最前列で、まゆの両親は祈るように固く手を組んでいた。
「……まゆ」
母の脳裏には、毎日自室で車椅子に座り、ひたすら理想の形を追い求めていた娘の細い背中が浮かんでいた。
マネージャーであり、アナリストの一華が導入した映像解析技術。まゆはタブレットで自分の動画と、お手本となる杏子の理想形を交互に見比べ、何十回、何百回とゴム弓での練習を繰り返してきた。
その様子をスマートフォンで撮影し、アドバイスを仰ぐために一華や杏子に動画を送信し続けたのは、他ならぬ両親だった。
今やりたいことを、精一杯やらせてやりたい。
父母はそう願っていたし、まゆ本人の気持ちを大切にしていた。しかしそのまゆ本人が、成績が下がって両親を心配させたくない、という思いから、徹底した無駄時間の排除、いや、隙間時間の最大限の利用により、勉強、そして体調との理想的な妥協点を探り続けた。
「まゆ、今の車椅子の角度、あと少し右じゃない?」
そんな理想との違いを指摘できるようになるまで、両親もまた、娘の挑戦に寄り添い、共に弓道を学んできたのだ。
まゆがゆっくりと弓を引く。
会から離れの瞬間。踏ん張る力の反動で、固定された車椅子のタイヤが床と微かに擦れ、短く「キュッ」と鳴った。
健常者よりもはるかに要求される筋力。
かすかな、けれど命を削り出すようなその真剣な音に、母の目から堪えきれずに涙がこぼれ落ちる。
極度の緊張からか、一射目、二射目と矢は的の枠を叩いて逸れた。
だが、執念の三射目――。
「カンッ!」
乾いた小気味よい音が響き、矢が吸い込まれるように的中した。
「……っ!」
歓声を上げてはいけない。弓道の神聖なマナーだ。まゆの両親は、震える両手で口を覆い、涙を流しながら、何度も何度も、光田の部員たちがいる応援席の方を向いて深々と頭を下げた。
自分たちの娘を、日の当たるこの舞台まで連れてきてくれた最高の仲間たちへの、声にならない精一杯の感謝だった。
通路を挟んだその隣では、全く対照的な光景が繰り広げられていた。
杏子の祖父母である。
祖母は、いつもと同じ、穏やかで静謐な表情で静かに手を合わせている。「いつも通り、あの子のままで」。その祈りは、見えない静かな光のように杏子を包んでいた。なにより祖母は、杏子のこれまでの歩みを、そして杏子自身を、深く信じていた。
対して、祖父は「静寂」との死闘を繰り広げていた。
これまでの大会で、思わず大声を出して進行係員にマークされた前科があるため、今日は一華や真映から厳しい監視の目が向けられている。
祖父は必死に口をへの字の真一文字に結んでいる。だが、声が出せない分、ジェスチャーに気合の跡が見える。
光田の選手が弓を引く前は、全身を強張らせて祈るポーズ。中たれば椅子から腰を浮かせんばかりのサイレント・ガッツポーズ。外れれば、のけぞって天を仰ぎ、頭を抱える。
「(中たれ……ぱみゅ子、中たれ!)」
声なき念を送りすぎて顔を真っ赤にしている祖父が、杏子の番になって、ついに興奮のあまり立ち上がろうとした瞬間。
背後に控えていた真映と一華が、左右から祖父のシャツの袖をグイッと引っ張り、力技で強制的に座らせた。
「ご隠居、座って! 動かんといて! 親分は大丈夫やから! 今日もいつも通り、完全な宇宙人に変貌しとるから!」
真映の低い、凄みのある囁きに、祖父は「むうっ」とくぐもった声を上げながら、再び真っ赤な顔のまま石像のように固まった。
そしてそれが四回、お約束のように繰り返され、選手以上にぐったりとするのも、お約束の光景だった。




