第55話 国民スポーツ大会
文化祭のころ、杏子たちのもとに一通の封書が届いた。それは、県弓道協会からの国民スポーツ大会(旧・国体)県代表選考会への参加要請だった。封を切ると、中には公式な招待状と、選考会の日程が記されている。
「光田高校からは、小鳥遊つぐみ、そして杏子の二名が選出されています。」
コーチが部室で淡々と告げたその言葉に、杏子は微妙な心地を抱いた。国体に出場することは名誉であると同時に、遠的競技がある場での特別な挑戦だ。しかし、杏子にはどうしても新しいチャレンジということに不安を拭えなかった。
「遠的って、面白そうじゃない?」
放課後の道場で、つぐみが明るく笑って言う。その横で瑠月は穏やかな声で補足した。
「近的と少し感覚が違うけど、集中力や射型を磨くにはいい経験になるかもきね。とにかくやってみないと分らないわよね」
杏子はつぐみの意気込みを聞きながらも、どこか上の空だった。遠的は的までの距離が通常の近的の倍以上もあり、視界に広がる空間の中で弓を引く。その特殊な形式が近的の技術向上につながる場合もあれば、逆に射型に変な癖をつけてしまうこともある。
杏子は、自分の中で静かに不安を抱えていた。
(今の射型が崩れるのは、嫌だな……。)
彼女にとって弓道は、おばあちゃんとの大切な絆だった。近的の美しい射型を追求することが、何よりも大事だと思えた。それを壊してまで遠的に挑むべきか、答えはすぐには出なかった。
その日の夜、杏子は祖父母に相談することにした。茶の間で、紅茶の香が立ち上る中、おじいちゃんは新聞をたたみ、おばあちゃんは裁縫の手を止めた。杏子は、少し緊張しながら話を切り出した。
「おばあちゃん、おじいちゃん、国体の選考会に呼ばれたの。でも……遠的で射型が崩れるのが恐いんだよね」
おばあちゃんは少し考え込むように視線を落とし、やがていつもの穏やかな笑顔で答えた。
「杏子ちゃんが好きなように決めたらいいのよ。何より、自分で納得できるのが大事だから。」
しかし、おじいちゃんは違った。珍しく真剣な顔をして、言葉を選ぶように静かに、だけとはっきりと言い聞かすように言った。
「ぱみゅ子、迷うぐらいならやめとけ。おじいちゃんも、挑戦すること自体は悪いこととは思わん。でもな、今の杏子の射型を崩す可能性があるのなら、それはリスクだ。特に今の杏子には、無理に挑まなくていいと思う。」
おじいちゃんは選考ってシステムが大嫌い。単純に実力で選ばれるならいいと思うんだけど、そこに射型とか、姿勢とか、取り組みとか、実績とか、要するに明快な判断基準が無く、人の判断が入る、情実が少しでも混じる余地があることが大嫌い。
情実が入って損をする。そのこともだけど、得をする方が辛い。おじいちゃん、結構立ち回り上手いから、辛い思いもしたんだろうなあ。わたしもどちらかと言うと、そうなタイプだからなあ。やっぱり似たものどうしだね、おじいちゃん。
翌日、杏子は道場でコーチに辞退の意思を伝えた。
「国体の選考会、辞退させていただきます。」
コーチは一瞬驚いたようだったが、すぐに落ち着いた声で答えた。
「そうか。杏子さんが考え抜いた結果なら、それでいい。無理に遠的に挑む必要はない。でも、もし気が変わったら練習を手伝うから、遠慮なく言ってくるように。」
その言葉に杏子は深く頭を下げた。コーチの配慮に感謝しつつも、自分の選択に後悔はなかった。
県協会にとってみれば、県大会個人チャンピオンの瑠月が年齢制限で代表に成れず、さらにブロック大会チャンピオンが県代表にならないのは痛手ではあったろう。繰り返しの要請には、コーチが一切遮断して杏子のもとには届かなかった。
国体にはつぐみ、日比野希、美咲静が県代表として出場することになった。杏子は会場には行かず、練習に励む日々を続けた。
大会後、つぐみから報告が届いた。近的で4位、遠的で8位という結果に、彼女は満足した様子だった。
「いい経験になったよ。」つぐみが明るく言う。
一方、杏子はその間、学校の道場でひたすら射型を磨き続けていた。おばあちゃんの教えを胸に、正しい姿勢と集中力を極めることだけに心を向けた。
夕暮れ時、杏子の家にはおばあちゃん特製の美味しい香りが漂っていた。いつもの広々とした居間に、瑠月、つぐみ、栞代が揃い、食卓には湯気を立てる手料理が並べられている。
「いやー、国体の疲れも吹っ飛びそうなご馳走がですね!」
つぐみが箸を手に取り、目の前の煮物や揚げ物を見つめながら言った。その勢いのある言葉に、おばあちゃんは穏やかな笑顔を浮かべた。
「たくさん食べてね。まだお鍋にもあるから、全部食べていいのよ。」
国民スポーツ大会から帰って来たつぐみには、一応の祝勝会はあったが、話も聞きたいと思った杏子が、つぐみを誘って、ささやかな食事会を開いていた。
「いただきます!」と、つぐみが元気よく手を合わせると、隣で栞代が「あれ、早くないか?まだ杏子の挨拶が……」とからかうように言った。
「いいんだよ!杏子もきっと『早く食べて』って思ってるよね?」とつぐみが笑いかけると、杏子も小さく笑ってうなずいた。
「うん、今日はいっぱい食べて、ゆっくりしてほしいから。話は食べてからでいいよっ」
しばらくしてお腹も落ち着いたのか、つぐみが「国体の話しよっか?」と切り出した。
「もちろん!」杏子が嬉しそうに答えると、つぐみは少し考え込むようにして話し始めた。
「近的は、まあまあ良い結果だったけど、遠的はまだまだだなって思ったな」
つぐみは唐揚げを口に放り込みながら、「ほんとに難しすぎ!でも、遠的も意外と楽しかったよ。特に風の読み方とか、普段の練習では考えないことを色々学べた感じ!」と陽気に答える。
「つぐみらしいわ。」と、栞代が割り込んだ。
「今回は会場に行って応援出来なかったんだけど、その分、ちゃんと練習はしてたよな、杏子」
杏子は少し照れた様子で答えた。
「学校の道場で、いつもと同じ練習なんだけど。ずっと射型の練習してた。国体に出たつぐみみたいに大きな経験はできなかったけど、少しでも自分の弓を磨こうと思って。」
その言葉に、つぐみが手を止め、杏子を真剣に見つめた。
「杏子のそういうところ、ほんとにすごいと思うよ。私、『経験だ!』って飛びついちゃったけど、ちゃんと自分に必要なことを見極められるんだもんな。だけど、同じことをしてたら、杏子を越えられない、そして麗霞がすることは全部してやるって思ってる」つぐみらしい。杏子はそう思った。
「ちなみに、麗霞は遠的も完璧だったぜ」
栞代もうなずきながら、「うん、杏子の選択、私はすごく尊敬してる。なんとなく、裏でおじいちゃんが糸引いてるんじゃないかと疑ってるけど」と言った。
その言葉に杏子は少し驚きながら「ありがとう……でも、みんなの話を聞いてると、遠的も楽しそうだなって思うよ。」と少し祖父の方を見ながら微笑んだ。
その後、話題は食べ物や弓道の雑談に移り、食卓は笑い声で満たされた。祖父はずっと杏子の自慢話をしていた。
杏子は、もう辞めて~って何度も言っていたが、祖父は一向に辞めようとはせず、栞代もつぐみも笑いながら耳を傾けていた。
ひとつひとつのやり取りに、つぐみが大笑いし、栞代も「どんだけ話あるねんっ」とさらに追及しようとするなど、終始和やかな雰囲気が続いた。
「秋の新人戦の団体戦は、たぶん、杏子とつぐみ、そして瑠月さんがトップチームとして出ると思う」と栞代が言い出した。そして、「杏子の夢が叶うのは、意外と早いかもしれん。オレも頑張るけど、県大会チャンピオンの瑠月さん、ブロック大会チャンピオンの杏子、そして、それぞれ準優勝のつぐみ。これ、全国優勝狙うには、最高のメンバーだもんな」
つぐみがそれを受け「はやく達成するのに越したことはない。全国には、麗霞をはじめまだまだ強敵がいるけど、このメンバーなら負ける気がしないわ。だけど、栞代、お前の力も絶対に必要になる時がくる。たのんだぞ」
「ああ、分かってる」栞代が力強く返した。
その夜、杏子の家にはいつまでも楽しい笑い声が響いていた。




