第547話 『一番似ている背中と、結果を手放す勇気』
南方武道館。
開会式の喧騒が去り、まずは男子団体の予選が始まった。
県大会を「薄氷の勝利」で制した光田高校男子チーム。けれど、今の彼らの背中に迷いはなかった。自分たちが最強の女子を支える「盾」であり、誇り高き光田の一員であるという自覚が、その佇まいを堂々としたものに変えていた。
プレッシャーに弱い自分」を克服しようとして、さらにプレッシャーを感じていた一ノ瀬の変貌は劇的だった。
「……マイナスとマイナスをかければ、プラスになるんだな。滝本顧問、さすがだ」
客席の端で、拓哉コーチがサングラスの奥で小さく呟いた。
滝本顧問からの地獄の宣告により極限まで追い込まれ、完全に逃げ場を失ったことで、逆に本番への雑念が吹き飛んだ一ノ瀬は、見違えるような鋭く迷いのない離れを連発していた。
一方、アンナの周りでは、一華の「密命」を受けた一年生のフルーツトリオが、大仕事をこなしていた。
コミュニケーション能力の塊である葡萄は、身振り手振りととびきりの笑顔で、言葉の壁を軽々と飛び越えてアンナと打ち解けている。
共感力モンスターの滴は、翻訳アプリを片手に、杏子が普段いかに「幼稚園児」のように危なっかしく、それでいて弓を握れば「宇宙人」のようにかっこよくなるかを、熱心にアンナに伝えていた。アンナはそれを聞いて、けらけらと楽しそうに笑い続けている。
「ほら、アンナちゃん。杏子先輩の漢字はね、こう書くんだよ」
苺は、持参したノートに丁寧に「杏子」という文字を書き、アンナに教える。
「キョウコ……プリンセス……」
アンナは三人に囲まれ、魔法をかけられたような笑顔で、その画数を小さな指でなぞっていた。
所在なさげに携帯ゲーム機を握っていた弟ラウリも、いつの間にか葡萄に「こっち来なよ!」と袖を引かれ、アンナの横に座らされていた。同年代の日本の女の子たちに囲まれ、ゲーム機の操作さえもおぼつかなくなるほど耳まで真っ赤にしている姿は、どこか微笑ましい。
いよいよ女子団体の出番が近づき、メンバーが射場横の控室へ向かうために席を立つ。
杏子がアンナのそばにしゃがみ込み、優しく声をかけた。アンナは一瞬、大好きなプリンセスが戦いに行ってしまう寂しさに表情を曇らせたが、すぐに顔を上げ、練習してきた言葉を贈った。
「キョウコ、ガンバッテ!」
杏子とぎゅっと両手を握り合ったあと、アンナはメンバー一人ひとりの目を見て、透き通った声で言葉を繋いでいく。
「Rauhallisesti.(落ち着いて)」
「Tsemppiä!(がんばって)」
「Onnea!(幸運を)」
そして、最後。車椅子に乗ったまゆの前で立ち止まると、アンナはそっと、まゆの膝の上に自分の小さな手を置いた。
「Mayu, sinun tapasi on eniten Kyōkon kaltainen. Tsemppiä!」
まゆが言葉の意味がわからず戸惑い、隣のソフィアを見上げる。ソフィアは、まゆの目を真っ直ぐに見つめ、妹の言葉を静かに、けれど熱を込めて訳した。
「……まゆ。アンナがこう言ってるわ。『あなたの姿が、一番、杏子に似ている』って」
その瞬間。
まゆの胸の奥で、何かが熱く爆発した。
「……私が、杏子に……?」
一番近くで、誰よりもその神々しい背中を追いかけてきた。杏子に強く憧れ、杏子の指導のすべてを素直に受け入れてきた。杏子に近づきたくて、いや、杏子になりたくて、何度も何度も暗闇の中で弓を引いてきた。その見えない努力の結晶を、海を越えてやってきたこの小さな少女は、一目で見抜いてくれたのだ。
まゆはたまらず、アンナを力いっぱい抱きしめた。
「……ありがとう、アンナちゃん。私、あなたのお姉さんに、必ず、最高のバトンを繋げるからね」
アンナがきょとんとしているのを見て、まゆは込み上げる涙を急いで拭い、満面の笑みで言い直した。
「Kiitos, Anna.(ありがとう、アンナ)」
アンナはまたパッと弾けるような笑顔を取り戻し、控室へと向かって小さくなっていくメンバーの背中へ、ちぎれるほどに手を振り続けた。
まゆにとって、これが高校生活最後の公式戦になる。
その両脇を固めるのは、切磋琢磨し、苦楽を共にしてきた最高の仲間たちだ。
全国準優勝を経験した杏子、栞代、紬。そして、誰よりもまゆの足跡を支え続けてきたあかね。
マネージャーであり、選手であり、そして後輩たちに勉強まで教えてくれている。いくつもの「草鞋」を履きこなし、光田弓道部の心臓として走り続けてきたまゆ。
その彼女と同じ射位に立てることを、誰もが心からの光栄だと感じていた。
観客席には、まゆの両親の姿もあった。
体にハンデを抱えているまゆを心配して、家に囲い込んでおくことだってできたはずなのに、彼らはあかねを信じ、まゆの「外へ出たい」という願いを尊重してくれた。
春の遠征で体調を崩したとき、死ぬほど心配だったはずなのに、最後は笑い飛ばして背中を押してくれた。
(お父さん、お母さん。私、ここまで辿り着いたよ。見ていてね)
「まゆ」
控室の前で、あかねが車椅子の横に立ち、いつものように声をかけてくる。
「まゆも何度か試合を経験してるから分かると思うけどさ。こういう極限の時に、ほんっとに杏子の『宇宙人っぷり』の凄さが分かるよな」
「……うん。ほんとに」
「的を穴が開くほど見ながら、的(結果)を気にしないなんて……ほんっと、わけわからんわ。普通、当てたくて力むだろ」
少し強張った顔で、二人はクスクスと笑い合った。
「でも、杏子が正しいんだよな。結果に引っ張られちゃいけない。結果は後からついてくるもので、私たちはただ、今までやってきた自分たちの姿を見せる。それだけなんだよ」
あかねは大きく息を吐き、まゆの手をぎゅっと力強く握った。
「それが一番難しいんだけどさ。でも、ここには結果を気にする奴なんて一人もいない。そんなものは、拓哉コーチと滝本顧問に任せておけばいいんだよ。私たちは、ただ最高の姿を見せよう。今しかない、私たちの最高の姿をな」
「……うん。あかね、行こう」
ありがとう。
その言葉は、まだ早い。まゆは込み上げる想いをぐっと飲み込んだ。すべてが終わった後、最高の笑顔で伝えるために。




