第541話 『杏子のモノローグ:特別な朝の、いつもの景色』
ふーっ。
私は洗面所の鏡の前で、両手でパチンと自分の頬を叩いた。
私はおばあちゃんが大好きで、おじいちゃんのことも大好きだ。
できれば、性格とか立ち居振る舞いは少しおばあちゃん寄りに似ていたいって思うんだけど。でも、夜は布団に入れば秒速で眠れて、朝はアラームが鳴る前にパッと起きられるこの特技は……これ、完全に「おじいちゃん遺伝子」なんだよね。
まあ、そこは、感謝しなきゃな……。
でも、おじいちゃんは言われないと朝の歯磨きを忘れがちだ。その点、私は毎朝ちゃんとシャカシャカ磨く。ここは綺麗好きなおばあちゃん似。よしよし、えらいぞ、私。
今日はブロック大会、団体戦の日。
マネージャーの一華が分刻みで管理してくれているスケジュールには、まだ少し余裕がある。ゆっくり下に降りて、おばあちゃんの顔見ようっと。
「おー! おはよう、ぱみゅ子ぉ!」
階段を下りるなり、階下から元気すぎる声が響いた。
「うん、おじいちゃん、おはよう」
振り返ったおじいちゃんを見て、私は思わず吹き出した。
……頭に、真っ白なハチマキを締めている。腰まで長くて、真ん中に「必勝」の文字。
「なにそれ、おじいちゃん。気合い入りすぎだよ」
「いやいや、ぱみゅ子、気合というものはな、どれだけ入れても、入れすぎということはないんじゃぞっ!」
「……『過ぎたるは猶及ばざるが如し』って言葉、知らんのか」
背後から、呆れたような声が降ってきた。栞代だ。
「栞代、おはよう」
「ああ、杏子、おはよう。……あれ、おばあちゃんは?」
「栞代! わしへの挨拶はなしか!?」
「あ、ごめんごめん。おはよう、おじいちゃん。ツッコミの方が先に出ちゃった。……で、そのハチマキ何?」
「……お前、そんなに素直に謝られると、逆にわし、恐縮するんじゃが……このハチマキはな、今日のお前たちの必勝を祈願している、わしのカワイイ気持ちじゃ」
「か、かわいい……? それ日本語のかわいいじゃないだろ。インドネシア語か何かか?」
いつものように朝から漫才を始めた二人。
その漫才の中でおじいちゃんが教えてくれた。おばあちゃんは、お吸い物に入れる三つ葉を庭へ採りに行っているらしい。「一番いい状態の、綺麗なものを選ぶのよ」と張り切っていたそうだ。
「おじいちゃんが選ぶと、いつもテキトーに選ぶからなあ」
栞代がいつものように指摘する。
「ふんっ」
おじいちゃんはちょっと不満げだけど、おじいちゃんが野菜とか買うと、一番手前のものを何も考えずに取るから、時々、腐ってたりしする。おばあちゃんにちゃんと見て買ってって、何度言われても治らないもんなあ。ブツブツ文句言いながら、交換しに行くまでがセットだけど。
栞代は、それはわざとでわたしと一緒に行きたいだけだっで言うけど、どうかなあ。
そんなことを思っていたら、
そこへ、ひんやりとした朝の空気と一緒に、おばあちゃんが戻ってきた。
「あら、杏子ちゃん、栞代ちゃん。おはよう。今日は少し早いのね」
「おばあちゃん、おはよう!」
おじいちゃんが「アスリートは睡眠が一番大事じゃ!」と説教を始めると、栞代が「杏子の寝付きの良さは、おじいちゃんから受け継いだ唯一の美点だよな」と返す。
「栞代」
「ん?」
「そこに座りなさい」
「いや、もう座ってるけど」
ふふふふ。いつものパターンでまた二人の掛け合いが始まる。
私はおばあちゃんを手伝おうとキッチンに入ったけれど、「もう並べるだけだから、座ってて」といういつものジェスチャーに甘えて、お茶の準備だけをすることにした。
一番ヤヤコシイおじいちゃんのお世話、というか相手を栞代が担当してくれているから、随分と楽だ。ふふふ。
私は急須でお茶を淹れながら、そんな「いつもの朝」の光景を眺めていた。今日が、高校生活の集大成に向かう特別な日であることを、一瞬忘れてしまいそうなほど、穏やかで温かい時間。
やがて、食卓にはおばあちゃんが心を込めて用意してくれた、目にも鮮やかな「黄金の勝負膳」が並んだ。
おじいちゃんが胸を張って、料亭の主人のように一品ずつ口上を述べていく。
「まずは、結びの『勝負おむすび』じゃ!」
最高級のブランド米『結びの神』でふっくらと握られたおむすび。三年生と後輩たち、十六人の絆を「結ぶ」という意味が込められているらしい。中身は「よろこんぶ(喜ぶ)」と、粘り強く戦うための「ねり梅」だ。
「そして、黄金の卵焼き!」
私の大好物。今日は一段と鮮やかな色に焼き上げられていて、まるで金メダルのように輝いている。
「ほうれん草の『勝男和え』じゃ!」
たっぷりの鰹節を「勝つ男」にかけているそうだ。緑の彩りが、道場での冷静な精神を支えてくれるらしい。
「さらに、『ねばり勝ち』のオクラ納豆!」
最後まで決して諦めない、執念の粘りを見せるために。
「締めは、『真鯛』のお吸い物じゃ!」
紅白のめでたい蒲鉾と、さっきおばあちゃんが摘んできたばかりの青々とした三つ葉が添えられている。おばあちゃんがつきっきりでアクを取ってくれたお汁は、どこまでも澄み切っていた。
「これ、ほんとに綺麗で透明なお汁だね……」
私が呟くと、おばあちゃんが優しく微笑んだ。
「おじいちゃん、エラソーに説明してるけど、これ全部おばあちゃんが考えて用意したんだろ?」
栞代のツッコミは、言葉はいつも通りだが、勢いがどこか鈍い。
おじいちゃんは「オクラ納豆を提案したのはわしじゃ!」と、妙に誇らしげに胸を張って返している。
今日は予定よりも早く起きたから、時間にはたっぷり余裕がある。おっと、余裕ありすぎて、一華に起きた連絡忘れてた。ちゃんと連絡しないとそのうち、電話掛かってくるよ。って、一華は起きてるよね……。
うんうん。大丈夫だ。
ゆっくりと勝負膳を味わい、ゆっくりと道着に着替え、ゆっくりとカバンの準備を整える。
玄関に向かうと、おばあちゃんから私と栞代の二人分のお弁当を手渡された。ずっしりと重い。
ふと、横に立つおじいちゃんを見る。
まさか、その白いハチマキを締めたまま、一緒に学校の校門まで来る気じゃ……?
私の不安を察したのか、おじいちゃんは頭のハチマキをスッと解き、意外なほど真剣な顔で私と栞代を見た。
「今日は、二人でいつものように登校するんじゃ。いつもの、普通の登校のようにな。お前たちはもう、光田高校の看板を背負って戦う身。わしにできるのは、ここから無事を祈って見守ることだけじゃ。……後悔しないようにな。精一杯、楽しんでこい」
おじいちゃんの意外なほど大人な言葉に、少し胸が熱くなる。
「……ただ単に、朝の散歩したくないから、そんな殊勝なこと言ってるんじゃないでしょうね?」
栞代のツッコミの言葉も、いつもの鋭さがどこか鈍っている。今の言葉は、栞代なりの照れ隠しのように聞こえた。
おばあちゃんが、私と栞代の手を順番に、両手でぎゅっと握ってくれた。
温かくて、少し湿った、朝から私たちのためにお料理を頑張ってくれたおばあちゃんの手。
「いつも通りでね」
そうだね、おばあちゃん。
特別な日だからって、特別なことはしなくていいんだ。私たちが今まで積み重ねてきたものを、ただそのまま出せばいい。特別なことを考えるのは、私たちの仕事じゃない。そこはコーチにお任せだ。
私は栞代と顔を見合わせて、うん、と頷き合って笑った。
学校の道場では、あかねが、まゆが、ソフィアが、みんなが待っている。
私たちは声を揃えた。
「「行ってきます!」」
扉を開けて外に出る。
カバンに揺れる『ヴィヴィ&トリー』のペアストラップが、夏の朝日を反射して、キラリと黄金色に光った。




