第538話 『まゆのモノローグ:私の時間が動き出した日』
窓の外から、遠くで朝を告げる鳥の鳴き声が聞こえる。
もうすぐ、あかねが迎えに来る。
家の前に車が停まると、彼女は急ぎ足でやってきて、私の車椅子を押し、いつものように騒がしく、けれど誰よりも優しく「まゆ、行くよ!」と笑いかけてくれるはずだ。
私は、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめる。
そして、杖がなければ立つことも、歩くこともままならない、この足を見る。
細く、頼りない私の身体。
……弓道なんていう武道は、自分には一生縁のない世界だと思っていた。
あかねに、ほんの少し「弓道に興味がある」と漏らしたあの日。
彼女はなんて言ったっけ。
『よし、わたしが先に入部して様子見てくるわ!』
私の返事も待たずに、あかねは嵐のように駆け出していった。
あの時、あかねが私の手を引いて、決して離さずにいてくれたから、私は今日、ここにいることができる。
あかねが教えてくれた、早朝の弓道場。
そっと覗いた扉の隙間。朝日が斜めに差し込み、空気中の埃がキラキラと舞う中で、たった一人で弓を引く女の子がいた。
……杏子。
あの時、朝日の中で空気を切り裂くような、澄んだ弦音を、私は一生忘れない。
無心で、凛としていて、まるで世界に魔法をかけているみたいに綺麗だった。
(……あの子の側にいたい。あの子の力になりたい)
自分が弓を引くことなんて、その時は二の次だった。ただ、あの美しく気高い光の側にいたかったのだ。
でも、実際に近づいてみた杏子は、不思議な子だった。
あんなに神々しい弓を引くのに、一度弓を置けば、危なっかしくて、天然で、のんきなくせにどこか頑固で、放っておけなくて、どこか頼りなげで。
……いつの間にか、私は彼女の「家族」の一部になっていた。
『さん付けじゃなくて……杏子って呼んで』
少し照れくさそうに、そう言って笑った彼女の顔。
「私には無理だ」と決めつけて、自分で自分を囲っていた高い壁を、杏子は軽々と飛び越えてきた。そして、私に「椅子に座って弓を引く」という、新しい世界をくれたのだ。
拓哉コーチと一緒に、私の身体の負担にならないよう、必死で考えて作ってくれた、私だけの射。椅子に座って弓を引く杏子を知ってるのは、わたしだけだよね。
あの時から、ずっと止まっていた私の時間は、奇跡のような鮮やかな色に染まり始めたんだと思う。
杏子のおじいちゃんが倒れた時、私たちは全国大会団体戦の金メダル、という夢の舞台を一旦失ったけど。
あの時、病院の待合室や、病室のベッドの隣で一緒に過ごした時間は、私にとって何物にも代えがたい大切な宝物だ。
おじいちゃんの面白い冗談、杏子の頑固で不器用な優しさ。
そのすべての温もりが、今の私を真っ直ぐに支える力になっている。
あの時、分からず屋なことを言ったおじいさんのほっぺたを思いっきりつねった杏子の顔は、今でも忘れられないよ。
あかねと一緒に、杏子と組んで、初めての大会で優勝した時のこと。
あかね、あんなに子供みたいに大声で泣くとは思わなかったよ。
私の的中を、自分のこと以上に喜んでくれて、くしゃくしゃの顔で抱きしめてくれた、最高の親友。
杏子が味方でほんとに良かったと思ったのは、同門対決の決勝戦。あの負けん気の強い栞代やソフィア、動じない紬が気押されてたもんね。
その分、わたしやあかねには、ほんとに頼りになる味方だったな。
そういえば、お母さんが、みんなの前でうっかり「あかちゃん」って呼んじゃった時、あんなに顔を真っ赤にして怒ってたけど……あかねは、私にとって世界で一番強くて、頼もしい「守護神」なんだよ。
そして、あの日。
絶対王者である鳳城高校との練習試合。
あんなの、本当に奇跡だった。
真映、楓、菓……後輩たちみんなの気迫が一本の糸のように繋がって、私の矢が、吸い込まれるように的に命中した時。
静寂を破って会場を包み込んだ、あの割れんばかりの拍手と、真っ先に駆け寄ってきてくれた杏子の涙。
あの瞬間、私は初めて、自分の人生を心から誇らしく、愛おしいと思えたんだ。
ソフィア、紬、栞代。
みんな、本当にありがとう。
一華、真映、楓、つばめ。
みんな、楽しい思い出ありがとう。
二乃、あまつ、菓、苺、葡萄、滴。
一年生とは昨日会ったばかりのような気がする。
頼りない私を、特別扱いするでもなく、当たり前のように同じ目標を持つ「仲間」として受け入れてくれて、どれだけ嬉しかったことか。
そして、杏子。
あなたはいつの間にか、立派に光田高校弓道部の部長さんになったね。冴子前部長、見る眼あったなあ。最初はみんなで支える部長だったのに、いつの間にか、みんなが付いていくようになった。もちろん、弓を握ればやっぱり、誰にも手が届かない「宇宙人」だけどね。
あなたの引く弓は、暗闇にいる人を救い出す、本当の魔法だよ。
自分が本当に辿り着きたい場所。そこに行く勇気と力をくれる。
私は一生、その魔法の虜でいたい。
……あ、車の音だ。
あかねが来た。
私はゆっくりと、愛用の杖を突いて立ち上がる。
不思議と、足はちっとも震えていない。心は、驚くほど静かに透き通っている。
背筋を伸ばし、一歩を踏み出す。
私がずっと憧れ続けてきた、あの美しい背中と同じように。
「さあ、行こう」
私たちの、最後の舞台へ。
みんなの想いで繋いできた、私たちの「最高の頂き」へ。




