第537話 『金庫入り親分』
「だからさ。その『行き場を失ったつぐみへの思い入れ』みたいなもんが、そっくりそのままオレに向いてきたって感じでさ。……オレ、つぐみの辛い思いの犠牲の上に、今、この温かい家に居るんちゃうかとも思ってんねん。少し、後ろめたいっていうか」
栞代の不器用な吐露に、杏子の瞳が潤んだ。
祖父のつぐみへの深い愛情。そして今、血の繋がらない栞代を本当の家族として迎えている愛情。その両方が尊くて、杏子は栞代の手を無言でぎゅっと握りしめた。
祖父は幼い頃、家庭に恵まれいなかったと、少し聞いたことがある。
だから敏感なんだな。
杏子は、祖父の口癖の一つ「世界は救えない」を思い出していた。だから、身近なところだけでも、という思いがあるんだ。
『……いや、栞代。アホなこと言うな』
つぐみの声は、少し震えていたが、力強かった。
『去年のインターハイ、杏子のおじいちゃんにほんま助けてもらったの覚えてるやろ。私のために会場まで乗り込んできてくれて。しかも、国会議員やら、外交官やら弁護士やら。どんだけ舞台装置整えるんかと後で聞いてびびったわ』
そして、一瞬の間を置き、落ち着いた口調で続けた。
『杏子にもめちゃくちゃ迷惑かけて……』
「全然迷惑なんかじゃないよ!」
杏子が思わずスマホに向かって声を張り上げた。
「逆に私もすごく嬉しかった。あれは、光田弓道部全員の気持ちだったんだから! それに、栞代の中学時代の友達も協力してくれたんだよ?」
『ほんま、ありがとやで。……あの時、冴子前部長も沙月さんも、私のためにめちゃくちゃ怒ってたって聞いたわ。瑠月さんなんか、大泣きしてたって……』
つぐみの声が、涙声に変わる。かつての孤独な苦しみ、そしてそれを力ずくで救い出してくれた光田の人々の熱。
『だから、栞代。わたしもおじいちゃんには相当助けられたし、救われたんや。なんの犠牲にもなっとらん。……それにな、わたしは今、千曳ヶ丘で、杏子と全く同じ境遇なんや。優しい祖父母と一緒に暮らしてて、部活もほんまに楽しい。だから、全然問題ない。栞代は、胸張ってそこで幸せに暮らせ』
その言葉に、杏子はホッとして胸を撫で下ろし、涙を拭った。栞代も「……そうか。なら、ええんや」と短く返し、鼻を啜って、ようやくいつもの調子を取り戻した。
だが、と栞代とつぐみは同じ思いを抱えていた。
杏子の夢である、団体戦の金メダル。そのチャンスをふいにしたのだ。
たしかに、杏子が居ても、あの圧倒的に強かった鳳城高校には叶わなかっただろうが。
選抜大会では杏子も揃い、全力でも届かなかった鳳城高校。
だが、だが、それでも……。
しんみりとした空気を吹き飛ばすように、つぐみは、話題を明日の団体戦へと移る。
『明日は遠慮なく、光田の屍を越えさせてもらうで』
「当たり前や。残念ながら、返り討ちにして地獄に落とすけどな」
『まあ、今日の結果見たら、明日はほんま大変な日になりそうやな』
「……千曳ヶ丘も、今日見てたけどチームワーク良さそうやな」
『そやで。葵もよーやっとるしな』
つぐみは、今の環境の良さを認めつつ、不気味な警告を口にした。
『チームワークは光田に負けてへん。あとな、話変わるけど、厳敷の野蒔柚葉おぼえてるか? 』
「もちろんや。優しい顔して度胸満点の子やがな」
『笑。柚葉の話やと、厳敷も、悪徳指導者がいなくなって今は完全健全な部活になったらしい。今のコーチは相当優秀らしいで。全寮制の強みがモロに出てるってよ。突出したエースは居らんらしいが、アベレージが高くて、団体戦は相当怖いな。正直、麗霞を欠いた今の鳳城よりも、現時点での総合力は上かもしれんぞ』
「マジか。まああの柚葉って子も、全然動じない図太さは、つぐみの証拠動画隠し撮りしてくれたことで証明済みやもんな」
栞代の声が険しくなる。杏子の目標は、あくまで団体戦での全国金メダルだ。そのためには、どんな強豪高であっても、薙ぎ倒さなければならない。二人はその重みを改めて噛み締めた。
『ということで、今日は個人戦やったし、杏子可愛さで、ちょっと譲ったったんや。明日の団体戦はそうはいかんで』
「それはこっちのセリフや言うねん。つぐみが可哀相で可哀相で、オレが譲ったったんや」
『あほか。わたしがせっかく力抜いて寝て弓引いたったのに、そのわたしに負けてくやしいわなあ、栞代』
「そう言う割には、今日、つぐみ必死な顔しとったけどな。どんな夢見取ったんやろなあ。遠近競射の時なんか、必死のオーラ、漂ってたで。あの葵って子も、泣いてたやん」
『ほんま、口減らんやつやで。あしたは、その葵もめっちゃ気合入ってる。光田を食うってな』
「おまえに言われたないわ。こっちはおじいちゃんに毎日鍛えられとんねん」
言葉の表面上は激突しているが、二人の大笑いは、完璧に揃っていた。
「ま、明日は、ほんま楽しみや」
「うん、私もすっごく楽しみ!」
栞代は挑発のニュアンスをたっぷりと滲ませていたが、その栞代の言葉に続いて、杏子が身を乗り出して無邪気に答えると、つぐみが呆れたように笑った。
『ほんま、杏子のそういうところは、全然変わっとらんなあ』
「なんせ、超箱入り娘やからな。箱どころやない、チタン合金製の金庫入りやで。変わりたくても周りが甘やかして、なかなか変わりようもないわ」
栞代のからかいに、つぐみが嬉々として追い打ちをかける。
『間違いないな。家ではおじいちゃんが完全ガードして、弓道部では一華さんを筆頭にした親衛隊引き連れてがっちりバリケード張って。最後に最強の砦として栞代が常に横に居るんやろ? 誰も手出しできんわな。一生金庫の中や』
「むぅーっ! わたしだって、少しは成長してるもん!」
真っ赤になって抗議する杏子の声を聞いて、栞代はそのむくれる姿を見て、つぐみはその姿が手に取るように目に浮かび、電話越しに大笑いした。
「ま、杏子を護る軍団の『切り込み隊長』兼『遊軍』として、外にはつぐみも居るしな」
栞代が笑いながら、言葉を加えた。
『う……ま、まあな。いざとなったら助けに行く準備はできとるけどさ』
「なに照れてんねん」
『照れてないわ! 急に振られて驚いただけや! アホ!』
騒がしく、愛おしい時間が、夜の部屋に溶けていく。
『とにかく、あしたは全力で光田を叩き潰すから。悪いな』
「それはこっちの言うセリフやで。首洗って待っとけ」
『ははは。じゃあ、あしたな、二人とも』
「ああ、あしたな」
「おやすみなさいっ、つぐみ!」
通話が切れ、画面が暗くなると、部屋には再び静寂が戻った。
高校一年生の頃、この部屋で、あるいは祖父の車の中で、毎日のように繰り広げられていた終わらない会話。あの時とは形が変わっても、三人の心の温度はちっとも変わっていない。
「よし。オレらも早く寝よか。睡眠が一番大事って、おじいちゃんうるさいしな」
栞代がそう言って杏子の部屋を出て、自分の部屋に帰って行った。
杏子は、大きな、そして暖かい幸福感に包まれながらベッドに入り、明日の「団体戦」という名の最高の舞台を思い描き、静かに目を閉じた。




